書の歴史8/王羲之・父子 書道のことを入木と言うことがある。 木板に王羲之が書いた字を削ろうとしたが、 文字が板に滲み込んでいて仲々削り取れず、3分削ってやっと取れたという逸話に基ずく。 三国時代に華々しく孔明と知略を競ったかの仲達(司馬懿)率いる司馬一族が 魏国の実権を握り魏を滅ぼし晋国を起こす。 しかし、 骨肉相食む内乱が北方の異民族の侵略反乱を許し、 司馬懿の曾曾孫の代で晋が滅びる。 これまでの晋を西晋、東に晋一族が新たに建国した晋を東晋と呼ぶ。 西晋は4代52年間、東晋は11代104年間を数える。 西晋の滅亡で、北方は争乱の巷と化し、 中原から東晋へ避けた高官、豪族は8・9割に達したといわれ、 支那文化の中心は期せずして揚子江流域に移るにいたった。 五胡と呼ばれる異民族の乱入で中原は大いに乱れた、所謂、五胡十六国の戦乱時代である。 一方、揚子江流域が文化の中心となり、華やかな六朝文化が実を結ぶのである。 このような時代背景の下に、書の分野に於いても、 魏・西晋時代に並行した新旧書体が、東晋の時代に入ると、 草書、行書が確立され、楷書の芽生えも出て来た。 混乱の際、後に王羲之を生む王一族が、鐘ヨウ、索靖の書を携えて揚子江を渡ったと伝えられる。 王羲之に入る前に、書の歴史上忘れてはならないのが李柏文書である。
李柏文書は 竜谷探検隊、ヘディン等により1900年代初頭に発掘された大小22片の古文書で、 行書、草書、章草、楷書の四つの書体が見られる。 行書、草書の完成、楷書の芽生えを示すものとして貴重である。 李伯は正史にも記されている人物で、 この文書が書かれたのは王羲之22歳から24歳の時期に当たる。 王 羲之。 生没年に諸説があるが、東晋の300年代に生没している。 政治家であるが政治家としてよりも、書道家として名高い。 後世、書聖と言われ、末子の王献之と併せて二王と呼ばれる。 近代書道の体系を作り上げ、後世の書道家達に大きな影響を与えた。 唐の太宗は王羲之の書をこよなく愛し、これを収集し、 蘭亭序をはじめ王羲之の書をすべてを自身と共に陵墓に埋めたと言われている。 王羲之の真筆は現存しないと言われており、 王羲之と言われる書も全て複写したものか拓本のみであると言われている。 王羲之の行書作品は「蘭亭序」「集王聖教序」が名高い。
「蘭亭序」は古来より王羲之の最高傑作とされ、 書道史上最も有名な書作品である。 数ある王羲之の書の中で唯一草稿が作品として残っているとされる。 真蹟は現存せず、これも複製です。 王羲之の人柄を慕う全国の名士を蘭亭に招き、 曲水の宴を開き、その時の詩集の序文草稿が蘭亭序である。 王羲之は何回も同じ物を書いたが、この草稿以上の清書は出来なかったと言い伝えられている。 先年、蘭亭の地を訪れたが、 如何にも近年の新た作りの感じだ。 まあ、1500有余年の昔のこと、 止むを得ないことであろう、 場所だけは間違えないようだ。 多くの王羲之の書を集めた太宗だが、 蘭亭序だけはどうしても手に入らなかった。 王羲之の子孫にあたる智永の弟子弁才の手に有ることを知った太宗は、 苦心惨憺の末にこれを騙し取り、終には自墓に副葬させたと言う。 王羲之の真跡は現存しないが真跡に最も近いのが蘭亭序とされている。 太宗が唐代の能筆に臨書、摸刻させた墨跡や模刻は多く伝わっている。
集王聖教序。 太宗の命により王羲之の墨跡の中から文字を集めて作った集字碑である。