第四十番 観自在寺
伊予最初の礼所。
第一番霊山寺から一番遠く離れている。
お忘れぽっくり地蔵、
物忘れ、ボケ防止に霊験あらたかと聞き、
最近、富にその気のある私は深々と頭を垂れる。
この蛙は「栄かえる」。
頭を撫でると、
病気が引かえる、福がかえるのだそうだ。
広い境内の片隅に平城天皇の遺髪塚が寂しげだ。
既に五人の子持ちの藤原薬子は、
平城天皇の側室である自分の娘よりも深く平城天皇の寵愛を受けた。
女傑だったのだろう、ママゴンの平城天皇を自由に操り、
政治への発言力を高める。
平城天皇が病気で弟の嵯峨天皇に皇位を譲った後も、
権勢欲を発揮し、これが兄弟の確執を呼び、
終に謀反人として薬子は自殺、
平城天皇は剃髪して仏門に入る。
世に言う薬子の乱だ。
その時、一人の女官が天皇の遺髪を此処に葬ったと言う。
空海と嵯峨天皇は友人関係にあったと知られている。
「おい、お前」とまでもいかないまでも、
嵯峨天皇が空海の諸事業の強烈な後ろ盾であったのは事実らしい。
この二人は三筆として書の歴史上でも名高い。
三筆のもう一人は橘逸勢、
空海 風信帖 |
嵯峨天皇 光定戒牒 |
橘逸勢(伝) 伊都内親王願文 |
彼は空海、最澄と入唐を共にし、
中国では才人としてもてはやされた様だが、
帰国してからの業績は冴えない。
最後は伊豆に流される途中で病死する。
人間、人生こもごもだ。
山門正面の路地、
古今の歴史が感じられる小道だ。
続く
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