敦煌への道

莫高窟

夭逝した名将霍去病などの活躍によって漢武帝が匈奴を討った紀元前111年、
敦煌は歴史に登場する。
以後、十六国、北魏、西魏、北周、隋、唐、吐蛮、西夏、元、明、清、
と目まぐるしく支配者が変わっている。
と言っても、2000年の時間がある。

三奇山と鳴沙山の間にオアシス、
その向こうの断崖に無数の洞窟。



1600mに繋がる莫高窟が間近に迫る。
砂漠が突然切り立った断崖となって流れ落ちる、
そんな断崖に窟が不規則に無数に並んでいる。





いよいよ莫高窟の門をくぐる。





砂のせせらぎ、
まず目に付いたのは窟の周りに砂時計ほどの砂の流れがある。
鳴沙山からの砂の流れだ。
よくまあ埋もれないで生き延びたものだ。
既に3m近くは埋没しているらしい。
何時かはまた新しい窟の発見があるかも知れない。



遥々敦煌まで来たのには秘めた目的があった。
57窟の菩薩像に逢いたいのだ。

ところが、衝撃が走る。
なんと、2,3日前から57窟が閉鎖されたのだ。
「私はこれを見るために来たんだ、何とかしてくれ」
と必死にガイドの何さんに頼み込む。
今にも泣き出しそうな顔をしていたのだろう、
何さんが掛け合ってくれた。
以外にあっさりと交渉が成立した。
閉鎖を決めてまだ日が浅いせいもあったのだろう。
扉が開かれた。

期待通りの菩薩像。
意外と小さい。
薄暗い窟の中で眼をこじ開け、顔と顔がくっ付くほどにして見入る。
こんな見方をする人間が多いのだろう、
閉鎖も止むを得ない、などと人事のように思う。
当然、写真撮影禁止、以下絵葉書などから複写した。



美しい。
なんと優しい顔をしているのだろう。
切れ込んだ眼、透き通る肌、少しおチョボな口元、
気品のある妖艶さが零れ落ちる。


もう一つの興味は十七窟、
小説「敦煌」では西夏の略奪を防ぐために仏教径典を隠し封印されたとする窟、
今でも中国人たちの憎しみを買いさげすさまれている王さん、
彼?が偶然16窟の入れ口辺りの壁の異常に気が付いた。
その壁を破ると小さな窟が現れその中にぎっしりと仏教径典等々が積み重なれていた。
600年余りも眠っていた文物が現れたのだ。
このニュースを知った各国の探険家は敦煌へ馳せ参じた。
最初に駆けつけたのはスタイン、続いてぺリオ、
日本からも大谷隊等々、
かくして世紀の秘宝は世界に散らばっていったのだ。
スタインが持ち帰った文物だけでも一万数千点。

今はがらんどうの窟に壁画、桐の木下に立つ美女。



そして、後年にこの窟に据えられた仏像。
唐時代に莫高窟の修復に奔走した高僧洪ベンの像といわれる。
洪ベンの像は元来17窟にあり、
例の王さんが発見した折に別の窟に移したのであり、
元に収まったとの説もある。



そう言われてみると背景と妙に調和が取れている。


飛天が舞う。
この黒色は長い年月で変色したのだそうだ。
元々はどんな色だったのだろう。





ここにも東洋のモナリザが居る。
誰が何時名付けたたのか、
そんなこととは無関係な微笑。





此処が、
中国三大石窟の龍門、雲こうと違うのは壁画が多い事だ。

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この像も大のお気に入り、
一寸、お澄ましの中に母性と女性を感じる。



















膨大な芸術品の数々、
此処には4世紀から14世紀にいたる各時代の芸術品が結集している。
美の宝庫なのだ。





57窟の菩薩像に逢えた興奮が冷めやらない。

続く

   

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