長門記3 毛利家の菩提寺 松下村塾

目の前に金網を張り巡らした発掘現場、金網に首を差し出して眺めていると目の前で、
新聞記者らしい若い男とが発掘の責任者らしい男と一問一答の最中、





「此所は江戸時代の民家跡です、水の扱いが面白いのです」
見ると古代ローマの遺跡のような水路が有る。
「萩は何時頃から萩なのですか」
若い新聞記者風の男が斜めな質問をする。
「この三角州には毛利が萩に街作りをしてから人々が住み着いた、
これが今迄の通説だったのですが、
先だって、弥生時代の遺物が発見されました。
毛利以前にも、もっと古代に人の生活が有った可能性が有ります。
ただ、今現在の発見は生活用具だけで生活の跡は見当たりません。
もしかしたら狩猟の為の出先拠点の跡かも判りません」
これも若い歴史家風が訥々と答える、目の光が良い。

萩焼のウィンドウショッピングを楽しむ。









更に白壁を巡って辿り着いたのが「菊屋」、350円を払っておもむろに靴を脱ぐ。
毛利輝元が関ヶ原から敗退する時に便宜を図り、
それ以後毛利家の御用商人として栄華を誇った町家、
全国でも最古に属する町家だそうだ。
司馬遼太郎がこの旧住宅を称し「長州人のもつ品の良い軽快な美意識」 と言っているが、
中国の僻地と言われる雲南建水の朱家旧居等に比べ規模、豪華さでは数倍劣るものの、
柱の黒い輝き、調度品の微妙な色合いに日本の美意識を感じて止まない。


萩を左回りに大回りして大照院と東光寺、
どういう訳か分からないがこの二つの寺に毛利家の歴代藩主の墓が奇数、偶数で分かれている。 



















同じ毛利藩の菩提寺なのに東光寺の規模が2、3倍大きい、これも判らない。
いずれも石灯篭と紅葉が見事だ。













東光寺の藩主の墓群から数段下がった所に
三本の10cm角程の粗末な墓標が三本侘びしげに立っている。  
たまたま、ガイドの話が流れてきた。
「この三つの墓標は、蛤御門の変を率いた三家老のお墓です。
戦いに負けて帰った三家老は切腹しましたが、
負け戦だったので、こんなみすぼらしいお墓に葬じられました」
生き残った、後の明治の元勲達の栄華、贅沢三昧を思うと感無量だ。


松下村塾。
此処には深い想い出がある。
一緒にやってきた友人は此所、松下村塾の前に立ち止まって暫く動かないで、唸っていた。
今でも彼に会うと必ずこの話になる。
「俺はあそこで開眼した、あそこが人生転換の契機になった」
何を開眼したのか、何が人生の契機になったのか判らない。
こんな小さなみすぼらしい馬小屋改造の学舎から日本を動かした晋作、有朋、玄瑞、博文、一誠、等々が続出した、
と言う理由だけでは無いようだ。
今度会った時に確認してみよう。







傑物とは言え、たった25歳の松陰がたったの一年間教えただけで、
あれだけの人材が育った事には、どうしても肯けないところがある。
何か別の要因も有ったに違いない。 
萩だけに備わった有形無形の立地条件、素地が有ったような気がしてならない。


続く











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