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書の歴史・日本編7/南北朝・室町時代

護良親王・書状
今度所願令成就者於丹生
護良親王(1308-1335)
幼くして延暦寺大塔に入ったので、大塔宮と呼ばれる。
19歳で落飾し2度にわたり天台座主となる。
元弘元年(1331年)に後醍醐が2度目の鎌倉幕府討幕運動を起こした時に還俗して参戦する。
その後、幕府軍との戦いに明け暮れ、ついに六波羅探題を滅ぼすに至る。
しかし、尊氏や父後醍醐天皇、その寵姫阿野廉子等と反目して捕らえられ鎌倉へ幽閉される。
その翌年、北条時行の中先代の乱の際、
護良親王が時行等に奉じられる事を恐れた足利直義に殺害される。
明治維新後、東光寺跡に親王の霊を弔うために鎌倉宮が造られ「大塔宮」とし呼ばれ、
幽閉されていた土牢は現在も鎌倉宮に現存する。
直義から護良親王の殺害を命じられた淵辺義博は憐れんで親王を逃がしたと言う伝説があり、
関東地方の各地に生存伝説が残っている。
後に、直義による護良親王暗殺を知った後醍醐天皇は益々尊氏との溝を深め、
新田義貞に尊氏征討を命じられ、かくして、南北朝の動乱が始まることになりる。
この書風から、剛直無骨なお人柄を想像する。


後伏見天皇・書状
東使昨日参候ける由承候実事候哉

後伏見天皇(1288-1336)
伏見天皇からの譲位により即位。
以後、大覚寺統の後二条天皇、持明院統の花園天皇、大覚寺統後醍醐天皇、
と二派が交互に即位した。


楠正成・書状
此之間何等事候乎抑為御祈祷

楠正成(?-1336)
元弘の乱時、いち早く後醍醐天皇に応じ、
千早城に立て篭もるなど幕府軍を悩まし、
これが因となって討幕運動に発展した。
倒幕後、建武中興新政権に重用される。
後に相反した尊氏の軍に破れ自刃する。
全半生の生い立ちは明らかでなく、
ウィキペディアによると、
日本史上これほど有名でありながら出自がこれほど謎に包まれた人物はほかにいないと言われる。
悪党と呼ばれる豪族とも伝えられる。
江戸時代の水戸学尊皇史家によって、忠臣として美談化されはじめる


宗峰妙超・虚堂和尚上堂語
南獄七十二峰

宗峰妙超(1282〜1337)
臨済宗の僧。一般には大燈国師の名で知られている。
禅風は厳格で、容赦ない厳しさをもって人に接し、
深く自己の悟境を掘り下げていくことを重視し、
唐代の禅風の復活を志向した。
妙超が花園天皇と初めて対座したとき、あまりに妙超が堂々としているので、
天皇が「仏法不思議、王法と対坐す」というと、
妙超はすかさず「王法不思議、仏法と対坐す」とやりかえした、と言う逸話がある。


後醍醐天皇・置文
右国家鎮之本

後醍醐天皇(1283-1339)
元弘の変で隠岐島に流罪となるが、
名和一族の働きで隠岐島から脱出し再び挙兵する。
足利高氏が天皇方に味方するなどして北条氏を滅亡させる。
建武の新政を開始するが、
武家を排除した公家中心の政権運営が各方面、
特に武士勢力の不満を呼び離反した足利軍に敗北し吉野にて南朝を開く。

多くの女性との間に多くの皇子をもうける。

中宮・藤原禧子:1女。
中宮・c子内親王:1女。
阿野廉子:後村上天皇(義良親王)、恒良親王、成良親王など3男2女。
藤原為子(兄・後二条の側室):尊良親王・宗良親王など2男1女。
遊義門院一条(父・後宇多の側室):世良親王を始め2男1女。
民部卿三位(祖父・亀山の側室):護良親王など2男1女。
従二位大納局(後宇多天皇の侍女):1女。

この中で興味を惹かれるのが阿野廉子である。
阿野廉子は新待賢門院といい、三位局とも呼ばれた。
例の待賢門院に似た名にも興味を持ったが、意外な事を知った。
「阿野」に見覚えがあったが、まさかあの阿野全成の末裔とは・・
前述したが、阿野全成は源義経の兄に当たり常盤御前の次男、
頼朝の兄弟で唯一子孫を残していることになる。
全成の娘の子・藤原実直が阿野家を起こし、その末裔が廉子である。
中宮・藤原禧子から後醍醐天皇の寵愛をもぎ取り、天皇とともに隠岐に流された。
隠岐から京都に戻る途中、
天皇が愛する別の女性を海に突き落としたという程の激しい気性であったらしいが、
「悪禅師」と異名をとった全成の血を引いているのであろう。


花園天皇・達磨像賛
底事当年断脣人

花園天皇(1297-1350)
後醍醐天皇の1代前の持明院統の天皇。
読経・念仏を欠かさなかったなど、文人肌で信心深かったと言われている。
皇太子時代の光厳天皇を訓戒するために記述した誡太子書は、
来るべき動乱の時代を予見した文章として名高い。


新田義貞・書状
尊氏以下五徒追罰事

新田義貞(1301-1338)
先年、琵琶湖北岸の観音を巡り歩いた時に、あるお寺で、
ここが新田義貞とその兵が豪雪にを阻まれ自害したと伝えられる地と、聞いた。
お話して頂いたご婦人が、ご自分の胸の辺りを指差して、
「冬はこの辺りまで雪が積もるのですよ」
と仰って居られたのが印象的だった。
どちらかと言えば雪の少ない上野の出身である義貞にとっては
堪らない雪であったであろう。
ましてや義に忠じての負け戦、
頼みの後醍醐天皇にも見捨てられた形の義貞の心底を思うと切ない。

これは義貞36歳の書、
内容は尊氏討伐の出兵を鞍馬寺に要請したものである。


雪村友梅・一行詩
月掛南渓樹

雪村友梅(1290-1347)
18歳にして元に渡る。
現地では趙子昂に書を学んだ。
間諜の疑いを受け獄に投じられるなど帰国したのは40歳を数えた。
五山文学の代表的人物である。
臨終の折、右手も左手も使えず、大筆を憤然と屏上に投げ捨てたという。


吉田 兼好・書状

御寺坊葱別無子細候覧


吉田 兼好(1283-1350)
言わずと知れた日本の三大随筆に数えられる「徒然草」の作者である。
北面の武士として後宇多天皇に使えたらしいが、
意外とその伝記は詳らかではない。
当時の和歌四天王との記録が有り、
幾つかの和歌を残している。
悪党野蛮な人物とされる高師直の横恋慕の恋文を代筆したとされる。
典型的な和様の書であり、相当に鍛錬された筆跡である。


夢窓疏石・書状
御礼委細拝見候了

夢窓疏石(1275-1351)
臨済宗の高僧。
宇多天皇九代の孫と言う。
18歳にして仏門に入り、
一山一寧等、当時の名僧達の薫陶を受ける。
次第に名僧としての名を馳せ、
北条高時、足利尊氏、後醍醐天皇等の帰依を受ける。
造園技術に優れ、
西芳寺、天竜寺、瑞泉寺、恵林寺等の名園を残す。


高師直・書状
於敏満寺不可致乱入狼藉

高師直(?-1351)
足利尊氏の執事として権勢を振るう。
足利直義と対立し一度は勝ちをおさめ実権を握ったが、
二年後、直義軍に破れた。
「太平記」に塩屋判官高貞の妻に横恋慕した、
など頗る悪党野蛮な人物との伝えがあるが、
この書を見ると、相当に高い教養の持ち主だった事が覗える。


足利直義・書状
顕家卿己下凶徒事

足利直義(1306-1352)
兄の尊氏の忠実な補佐役として、
鎌倉幕府倒幕、建武の中興に重要な位置を占めたが、
急進派の高師直と対立し、
後には尊氏と戦い47歳の波乱の生涯を閉じる。


足利尊氏・書状
自伯耆国所蒙

足利尊氏(1305-1358)
室町幕府の初代将軍。
元弘の乱が起こると、
当初は幕府方に組し後醍醐天皇を攻めるが、
後に天皇方に内応、六波羅探題を攻略した。
その功を以って建武の中興第一の功労者に挙げられる。
しかし、護良親王、新田義貞等の反尊氏の勢力の前に孤立して行く。
貴族中心の建武政権に反感を持つ武士達を結集して、
建武政権に反乱しこれを打ち破り、室町幕府を成立させる。
弟直義との不和など、必ずしも安泰な晩年では無かった。

尊氏の書は世尊寺派に分類され、能書家でもある。


北畠親房・書状
芹河殿敷地先年賜

北畠親房(1293-1354)
若年時から剛直と言われ、
最後まで南朝の中心人物として後醍醐天皇、後村上天皇に仕える。
「神皇正統記」の著者。
この書状は夢窓国師宛てのものである。
如何にも忠義一筋の筆跡である。
清清しく外連味が無い。


大内義弘・書状
臨時之祭礼厳重執勲行之条返々

大内義弘(1356-1399)
百済王朝の血を引くとされる。
南北朝統一などで功績を挙げ、幕府に対抗するまでの勢力となるが、
守護大名の弱体化を図る足利義満との戦いに敗れ戦死する。
義弘の墓所のある瑠璃光寺五重塔は国宝として知られる。
この書状は義弘30代後半の書とされる。


足利義満・願文
岩清水八幡宮

足利義満(1358-1408)
11歳で室町幕府三代将軍職を継ぐ。
有力な守護大名を次々に討ち滅ぼし、
一方で南北朝を合一させて全国統一を成し、
幕府権力を固め名実ともに公武両勢力の頂点に立つ。 
京都北山に金閣寺をはじめ広大な山荘を営み、
新しい文化の中心となった、これが北山文化である。
武家文化、公家文化、更に禅風の中国文化が融合しあったのが特色である。


世阿弥・能本
應永廿年後七月十一日

世阿弥(1363-1443?)
父観阿弥と共に幽玄な猿楽能を大成させた。
将軍足利義満の絶大な寵愛を受け絶頂期を迎えるが、
その晩年、跡取りの長男・元雅の突然の死、
更に、義満没後、新将軍義教により佐渡流罪となるなど、晩年は不遇であった。
「風姿花伝」などの多くの芸論を遺すが、史料価値のみならず、
文学的価値も高く評価されている。


山名宗全・書状
五色済々送給候

山名宗全(1404-1473)
応仁の乱で西軍の総大将として細川勝元の率いる東軍と戦った。
策謀家として知られる細川勝元に対し、
「赤入道」と称され直情的な親分肌で勇猛果敢な武将であったようだ。

「赤入道」の異名の割には柔らかな筆致だ。
尚、五色とは東寺瓜の異名。


細川勝元・書状
就八朔之儀蚊帳送給候殊以令祝着候

細川勝元(1430-1473)
細川家は9ヶ国の守護であったのに対し、
山名家は8ヶ国の守護であり、当初、お互いに牽制し合い、
婚姻関係を結ぶなど協調しあったが、
ついには対立せざるを得なくなり応仁の乱に発展する。

勝元は多才な人物で和歌・絵画・鷹狩などを好んだと言う。
また、医術書「霊蘭集」なども著している。
竜安寺・竜興寺は勝元の創建である。

宗全に比して策謀家とされる勝元の書が、
宗全の書に比して頑固一徹な書風なのが面白い。
尚、八朔とは陰暦8月1日、この日は贈り物を交わす行事があった。


一休宗純
諸悪莫作

一休宗純(1394-1481)
後小松天皇の御落胤とも言われる。
早くから詩才に長じ、少年時に既に、洛中で評判となる漢詩を作っている。
20代半ばにして風狂の生活に入る。
諸国を漫遊し当時の禅宗の弊風を誹り、あたかも狂人の如く振舞う。
仏教の戒律で禁じられていた飲酒・肉食・女犯を行い、
側女がいたりなど多くの奇行が伝えられている。
後に、後土御門天皇の勅命により大徳寺の住持に任ぜられた。
権威を否定し悟りさえも否定して庶民の中で生き抜いた生き様は
多くの民衆に慕われる存在であった。
・・門松は冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし・・

その書は枯淡で風格があり、強烈な個性にて異彩を放つ。


足利義政・和歌懐紙
詠藤為松花和歌 義政

足利義政(1436-1490)
室町幕府の第8代将軍。
将軍職を継いだ当初は政治に力を入れたが,
のちには夫人の日野富子や側近に政治を委ねっ切りとなる。
再三の一揆が幕府政治を揺さぶり頻繁な徳政令発令が余儀なくされた。
将軍継承争い等に端を発し応仁の乱が起こり,政治は乱れ幕府の勢力は頓に衰えた。
義政は専ら風雅の道に逃避し、東山に仏社建造に情熱を注ぐ。
これが、東山文化として文化史上に一時代を期した。


蓮如・書状
於諸門下企悪行之由其聞在之言

蓮如(1415-1499)
異宗や他派に押されていた浄土真宗本願寺を中興し、現在の礎を築いた。
蓮如の布教は、教義を消息(手紙)の形で分かりやすく説いた御文(おふみ)、
(御文章(ごぶんしょう)とも)を中心に行なわれた。
生涯に4人の妻と死別し、5人の妻を娶る。
子は13男14女。死の直前まで公私共に多忙を極めた。
74歳の書。


宗祇・書状
巻頭之事元日之立春

宗祇(1421-1502)
連歌、和歌、漢詩に長じ、それぞれの分野で多くの著作を残す。
特に連歌に於いては指導的な立場で連歌の発展に尽くす。


雪舟・書状
広済寺の仏殿ノふすまに西湖の

雪舟(1420-1506)
日本水墨画の完成者。
40代後半に明へ渡る。
諸国を周遊し、従来の山水画に大陸で得た知技を重ね独特の画風を生み出す。
晩年の経歴は明らかではない。


北条早雲・書状
雖未申入候以次令啓候仍關右馬

北条早雲(1432-1519)
戦国時代の代表的武将。
其の出生については京都伊勢氏の流れを引くと言われるが明らかではない。
駿河の守護今川氏の内紛をおさめ、駿河の興国寺城主となり、さらに、
伊豆堀越公方の内乱に乗じ伊豆の実権を握ると伊豆韮山に拠点を置き、
小田原城を乗っ取りなど関東に進出し関東一円に勢力を広げた。
早雲は戦術に長けているだけでなく民政にも優れ、
学問や和歌にも秀でていた。


大内義與・書状
公方様至当国

大内義與(1477-1528)
京都を追われた放浪将軍・足利義稙を擁して上洛を果たし、
管領代として中央政治を執行するなど、
父政弘に次いで、大内家を再興させた。


大内義隆・和歌懐紙
冬日同詠松久友 和歌

大内義隆(1507-1551)
父義與の跡を継いだ義隆は周防、長門・石見・安芸・備後・豊前・筑前を領し、
名実共に西国随一の戦国大名となり大内家は全盛期を迎えた。
明との交易を独占し莫大な財を成し、学問・芸術の高揚に尽くし、
キリスト教布教も許し、独特の大内文化が生まれ、文化的にも全盛期を迎えた。
しかし、義隆の晩年に家臣団対立が起こり、重臣の陶晴賢の謀反により自害する。
以後、大内氏は衰退の一途を辿る。


山崎宗鑑・五言二句
雪継浮橋断烟影山舎蔵

山崎宗鑑(1465-1553)
室町時代後期の連歌師。
室町幕府第9代将軍足利義尚に仕えたが、
義尚没後武門を離れ、専ら、文事に没頭した。
連歌の発句を独立させ俳諧の基礎を築いた。


狩野元信・書状
御懇之預御礼候殊二依御寺

狩野元信(1476-1559)
狩野派の祖である父正信の跡を継ぎ将軍家の誤用絵師おなる。
大和絵の土佐光信の娘と結婚したと伝えられるが、
大和絵の装飾技法と漢画の技法を折衷させ狩野派の画風を大成させた。
平明、率直な画風は朝廷、幕府、社寺はもとより町衆などの一般にも受け入れられ、
狩野派の地位を不動のものにした。


今川義元・書状
天下弥静謐に申付け候竒特

今川義元(1519-1560)
老臣雲斎の助けを得て、駿河、遠江、三河を勢力下に置き、
甲斐武田、相模北条と和を結び尾張への進出を図るが、
信長に破れ田楽狭間にて敗死、42歳。
母から貴族的素養を受け継ぎ、
この書状もいかにも貴族的である。



以下に下克上に直接関連した歴史上の人物の書を臨書する。
不思議に、この時代の人々の書には、
荒れくれった当時の世相が浮かんで来ない。
皆、其々が文識者であり、よんごと無く戦に明け暮れていたのであろう。
それにしても名書の臨書のつもりが、
いつの間にか古今の歴史上の人物の書に興味が移ってしまった。

細川晴元・書状
くれ申候に御使給候
細川晴元(1514-1563)


三好長慶・書状
昨日委細御返事に申候へ
三好長慶(1522-1564)


松永久秀・書状
御状令拝見候一堺への儀可被急候旨
松永久秀(1510-1577)


以下戦国の武将たちの書を並べてみた。
彼等の豊かな個性を書き分けるのは難しい。

毛利元就・書状
阿須郡藤祢名内一町為給地遺候
毛利元就(1497-1571)


武田信玄・願状
今度頓速?倒豆相両州
武田信玄(1521-1573)


上杉謙信・詠草
関路暁霧
上杉謙信(1530-1578)
謙信青年期の書、定家様の書風である。


山中鹿之助・書状
永々被遂牢殊當城籠

山中鹿之助(1545-1578)
生涯、尼子家の再興に東奔西走した忠臣。
この書状は鹿之助が討たれる数日前に部下の身の振り方を気遣ったのもので、唯一の自筆とされる。
囚われの身の中にも拘らず、
若々しい気力充実した書である。


武田勝頼・書状
就沓屋之大方死

武田勝頼(1546-1582)
武田家ゆかりの武将の母上の死の知らせへの返書である。
細かい気配りが感じられる。


快川紹喜・蘭渓字説
蘭渓
快川紹喜(1502-1582)
恵林寺にて一山の僧とともに焼死した時の辞世、
「心頭滅却すれば火もまた涼し」





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書の歴史・日本編TOP



引用文献
講談社刊:古筆から現代書道まで墨美の鑑賞
講談社:日本の書
東京書道研究院刊:書の歴史
講談社:日本書跡全集
大修館書店刊:漢字の歴史
平凡社刊:字統
平凡社刊:名筆百選
創元社:書道入門
平凡社:書道全集
講談社:現代書道全集
二玄社:書の宇宙
白州正子:西行
角田文衛:待賢門院璋子の生涯




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