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書の歴史・日本編5/鎌倉時代前期


院政のあと政権を握った平氏の政治は、
従来の公家政治と何等変わる事がなかった。
その後、頼朝による武家政治が成立すると、
京洛の貴族たちは経済的にも精神的にも微力となり文化的にも大きな変調をきたした。
武家や庶民を対象とする新興宗教が盛んに信仰され、
殊に禅宗が意志を中心に行動する武士に歓迎された。
入宗僧、帰化僧などによる五山文学が栄えたのもこの時期である。

藤原師長・書状
五ヶ日番の晩文

藤原師長(1137-1192)
頼長の次男。
父頼長と保元の乱に連座し土佐に流されるが、
後に、後白河法皇の寵を得て、太政大臣まで登る。
しかし、清盛の勘をこうもり失脚する。
琵琶、筝の名手として名高い。


寂連・熊野懐紙

寂連(1139?〜1202)
藤原俊成の甥。
俊成の養子となっていたが、俊成に定家が生まれたので、出家。
新古今和歌集の選者の一人。
今日、寂連を筆者とする夥しい古筆が残っている。
当時の流行児だったのであろう。


藤原俊成 秋詩五首
夏の日ハなるるをいとふころもての身になつかしき秋のはつ風

藤原俊成(1114-1204)
若年から歌人として名を馳せており、
多くの歌合せの判者をした記録が残る。
「千載和歌集」の選者であり、勅撰集に四百あまりの歌が載っている。
当時の歌壇の指導者として多くの歌人を育てた。
中でも、平忠度とのエピソードは良く知られている。
・・さざ浪や志賀の都はあれにしを昔ながらの山ざくらかな・・
平忠度は師の俊成にこの歌を託し戦場に赴き華々しく戦死した。
俊成はこの歌を詠み人知らずとして千載集に撰んだ。

息子である藤原定家撰の小倉百人一首には俊成の、
・・世の中よ道こそなけれ思ひ入る山の奧にも鹿ぞ鳴くなる・・
がある。


文覚・消息
御灌頂めでたくはて候ぬる返る神妙候さみたれ

文覚(?-?)
今昔物語に登場し、横恋慕した袈裟の首を切った俗名遠藤盛遠だ。
18歳の時と言う。
後白河法皇の勘をこうもり伊豆に流され頼朝と知り合う。
頼朝の旗揚げに功があり重用されるが、
再び隠岐へ流罪となり、その後の消息は知られていない。

荒坊師の名を彷彿される豪快な筆致、
けれんみのない純朴そのものだ。
豪快実直な人柄が偲ばれる。


源頼家・書状
越前国石田庄地頭八友実

源頼家(1182-1204)
修善寺物語などで語られるひ弱な二代将軍ではなく、
才気豊かな青年だったらしい。
ただ、常軌をを逸する行為があり、これが、
母方の北条、后方の比企との勢力争いの口実にされ、
短命に終らされたのではないだろうか。

この書を見ると、
無心に健気に職務に没頭している姿を感じる。


重源・解状袖書
件寺別当職依請令寺家了

重源(1121-1206)
東大寺大仏の再建者として名高い。
書の良し悪しは判らないが、
一途の思いが響き渡ってくる重さのある字だ。


九条兼実・書状
雨夜侍坐直実残多候

九条兼実(1149-1207)
藤原忠通の第三子。
後白河法皇、平家一族との間に一線を引くが、
平家滅亡と共に頼朝に厚遇されるが後に失脚。
若年より能書家として名を馳せる。


熊谷直実・誓願書
元久三年十月一日よゆめに見る

熊谷直実(1141-1208)
一の谷で平敦盛を討った逸話で知られる。
後に出家、頼朝に嘱望されるが辞して草庵を営む。


法然・消息

法然(1133-1212)
浄土宗の開祖。
鎌倉新仏教の先駆者。
庶民、武士、貴族のあらゆる階層からの帰依を受け、
重源、親鸞などの優れた弟子が輩出し教えを広めた。
法然に纏わる多少生臭い話が残っている。
世に言う「建永の法難」である。
庶民のために仏教を説いた法然上人は、
「すべての人は平等で、南無阿弥陀仏と唱えていれば救われる」と教えを説いた。
この教えに基づき、弟子の住蓮房と安楽房が専修念仏の道場と鹿ケ谷草庵を開いたが、
その教えに魅了され出家する者が後を絶たなかった。
その中に、後鳥羽上皇の女官、松虫姫と鈴虫姫の姉妹が居たが、
二人は感激して出家してしまう。
激怒した上皇は、住蓮房と安楽房を断罪に処し、法然を讃岐に流した。
悲しんだ松虫姫と鈴虫姫は後を追って自害したとも、
出家して生涯二人の房を供養したとも伝わる。
京都東山の哲学の道に面する安楽寺には住蓮と安楽の墓と供養塔、そして、
松虫姫と鈴虫姫の供養塔もひっそり寄り添っている。

法然の書には、
構えた所は微塵に無く、人格が滲み出ている。


北条時政・書状

北条時政(1138-1215)
鎌倉幕府の初代執権。
配流中の頼朝を助け、鎌倉幕府の設立に中心人物として寄与した。 
頼朝死後、将軍職を継いだ外孫頼家の岳父である比企能員と対立し、
これを排除して実朝を擁立し幕府の実権を握る。
後に、
後妻牧の方と計り娘婿を将軍にと企んだが失敗し、
政子、義時により伊豆に隠居させられ、伊豆にて没する。
さしもの時政も晩年は牧の方にうつつを抜かし、
耄碌してしまったのであろう。

書は、無骨な武士らしく腰が据わり、一本芯が通っている。


栄西・奉献物添状

栄西(1141-1215)
日本臨済宗の開祖。
28歳と47歳時に二度入宋している。
鎌倉幕府の厚い帰依を受け、
北条政子建立の寿福寺の住職に招聘されたり、
源頼家の外護により京都に建仁寺を建立したりしている。
以後、幕府や朝廷の権力に取り入り禅宗の振興に努めたとされる。
重源の後を受けて東大寺勧進職に就任。


鴨長明
御簾七間之内五

鴨長明(1153-1216)
早くから、和歌、管弦の道に優れ、著名な歌人として知られ、
歌人としての長明を慕う実朝と親交があった。
「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。」
で始まる方丈記は無常観の文学として知られる。


源実朝・書状
木田庄申朝助井助保

源実朝(1192-1219)
頼朝の次男。
兄頼家が出家させられ12歳で征夷大将軍に付くが、
実権は北条氏が掌握し名のみの将軍であった。
京の華美に憧れ、王朝文化を求めた。
28歳にして甥の公暁に暗殺される。


北条政子・消息
御文たしかにうけたまはり候ぬ

この消息は文覚を気遣い弟子の上覚に宛てた物と言われる。
当時の政子は、頼朝、愛娘乙姫を続けてなくした時期であるが、
闊達な筆致、彼女の男勝りの気丈さが現われた書だ。



後鳥羽天皇・熊野懐紙
詠二首倭歌 深山紅葉

後鳥羽天皇(1198-1221)
土御門、順徳、仲恭と3代23年間に渡り上皇として院政を敷く。
院政機構の改革など台頭する鎌倉幕府に対して強硬的な路線を採った。
承久の乱を起こしたが完敗。後鳥羽上皇は隠岐島に配流された。
父の倒幕計画に協力した順徳上皇は佐渡に流され、
関与しなかった土御門上皇も自ら望んで土佐に遷った。

譲位後、熊野を特に信仰され、幾度も熊野を訪れている。
その際、催された歌会での和歌懐紙を熊野懐紙と称する。





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引用文献
講談社刊:古筆から現代書道まで墨美の鑑賞
講談社:日本の書
東京書道研究院刊:書の歴史
講談社:日本書跡全集
大修館書店刊:漢字の歴史
平凡社刊:字統
平凡社刊:名筆百選
創元社:書道入門
平凡社:書道全集
講談社:現代書道全集
二玄社:書の宇宙
白州正子:西行
角田文衛:待賢門院璋子の生涯




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