書の歴史・日本編2/平安時代前期
平安遷都に伴い文化の中心は大和から山城に移る。
大和は男国、山城は女国とも言われるが、
書の世界に於いても、
天平の堅強、厳粛さに柔らかさ暖かさが加わり、
中国的で有りながら、そこに独特な日本風が現われ始める。
個性の尊重を謳う空海に始まり、
嵯峨天皇、橘逸勢、の三蹟を経て、
遣唐使の廃止以降、更に革新の傾向が強められ、
優雅典麗な和様体が形成されてゆくのである。
最澄・久隔帖(813)
最澄(伝教大師、767〜822)
天台宗の開祖、没後、伝教大使の謚号を賜る。
この書は、
最澄が高雄山寺にて空海に仕えている愛弟子の泰範に宛てた書状、
唯一現存する最澄の自筆書状である。
「久隔清音・・・」
(久しく御無沙汰を・・・)と書き始まることから久隔帖と呼ばれている。
空海から送られた詩の序のなかに判らない部分があり、
それを空海に聞いて欲しいと言う内容である。
年少の空海に対して卑屈と思われるほど礼を尽くしているが、
空海への気遣いや直向きな姿勢が滲み出ている。
書風は、澄み渡り清らかで流麗である。
最澄・伝教大使将来目録()
最澄が入唐の際に蒐集したり書き写したりした経典類の目録である。
あくまでも記録であり、久隔帖と異なり、
改まった筆意は見られず、自然体である。
空海(774-835)
真言宗の開祖、没後(921)に弘法大使の謚号を賜る。
804年、橘逸勢、最澄と共に遣唐使第一船に便乗した。
書技の天性に恵まれ、若年時から王羲之を学び、
入唐時には顔真卿などの唐の書法を取り入れ、
模倣を超えた独特の優れた書風を形成した。
嵯峨天皇、橘逸勢と共に平安の三筆とされる。
風信帖は空海が最澄に送った書状、
書状が「風信雲書・・・」で始まる為、風信帖と呼ばれる。
最も優れた空海の書として伝わる真蹟である。
活力に富み自由奔放に躍動する書の流れ、
我々の臨書では生涯、いや、二生三生を以ってしても、
辿り着けない懐の深さだ。
古来、最澄と空海、そして久隔帖と風信帖は、
様々な角度から比較されるが、
二者の性格の違い、生き方の違い、
そんな違いが書にも現われているように思う。
このあたりの事は、司馬遼太郎の「空海の世界」に詳しい。
空海・崔子玉座右銘