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書の歴史・日本編1/飛鳥-奈良時代
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光明皇后・楽毅論(744)


光明皇后(701-760)
王羲之の「楽毅論」を光明皇后が臨書した。
筆跡から、豊かな感受性と旺盛な好奇心の持ち主であった事が覗える。
一方で、男性的ともいえる豪放磊落な書風である。
威厳さも兼ね備え、極めて堅固な精神の持ち主であった事が想像出来る。。 
深い教養と聡明さを以ってして、当時の才色兼備な才女として、
天平文化の中心的な存在で有ったのであろう。
籐三娘の署名は、
皇后と言うより藤原不比等の三女を強く意識していたのであろうか。




光明皇后・杜家立成雑書要略

前書の楽毅論は光明皇后の臨書であるが、
この杜家立成雑書要略は光明皇后が自分の書風で書いたもので、
王羲之等の臨書で培った非凡な筆致を見ることが出来る。
理知的で悠々迫らぬ風格がある。 




恵美押勝・東大寺封戸処分勅書(760)

恵美押勝(706-764)
光明皇后の甥、旧名藤原仲麻呂である。
橘奈良麻呂の乱を治め政敵を滅ぼすと
皇族以外では初めてと言う太政大臣の位まで上り詰める。 
しかし、光明皇后の死後、孝謙上皇の寵愛は道鏡に向けられ、
終には上皇の激怒を買う事になる。
かくして起こった反孝謙上皇・道鏡のクーデターが恵美押勝の乱(764)である。
次いで記す道鏡の書とを並べ、
当時の政権首脳部の抗争を考え合わせると興味深い。




道鏡・牒(762)

道鏡(?-772)
藤原仲麻呂が失脚後、益々孝謙天皇の寵愛を深くし、
天皇の地位を狙う(一部には俗説との説あり)までの高位に上り詰めたが、
孝謙天皇(後の称徳天皇)没後に失脚する。 
しかし、失脚の理由などは不明確で、
天皇後継問題に絡んで歴史から疎外された、との説も有る。
この書の書かれたのは762年とすると、
藤原仲麻呂の変(764年)以前のこととなり、
仲麻呂と孝謙天皇の寵愛を競い合っていた時期の事になり興味深い。





鑑真・書状(754)

鑑真(688-763)
鑑真54歳の742年の第一回目の渡日決行から748年の第五回目の決行までことごとく失敗、
第五回目には激しい暴風にあい、14日間の漂流の末海南島へ漂着する。
この間の辛苦の為、鑑真は失明する。
753年、渡日の決意は変わらず6度目にて悲願を達成し終に日本の土を踏むのである。
想像を超える意志の強さである。
仏教行政の最高指導者“大僧都”に任命され、
仏教界の風紀を劇的に改善したとされる。
その後、朝廷と意見が分かれ野に下る。
71歳の時、私寺である唐招提寺を開き、
多くの僧侶を育成した、一方で、
社会福祉施設・悲田院を設立し貧民の救済に取り組んだ。

その書にも、鑑真の人柄、人間性が滲み出る。
豊潤かつ雄渾にして気宇雄大である。




唐招提寺門額(759)

伝孝謙天皇
力強い筆力を示し、
引き締まった瀟洒な感じを受ける。 
「提」字は王羲之の書法そのものである。 
当時の王羲之への傾倒振りが覗える。
孝謙天皇は聖武天皇、光明皇后の女子の御子である。
お二人の男子の御子が居らず、
聖武天皇の後を継いで天皇となる、女帝である。
橘奈良麻呂、藤原仲麻呂、道鏡、と、
血生臭い政争に関連している。
藤原仲麻呂の乱後、
重祚(一度退位した皇帝が再び皇帝の座につくこと)して称徳天皇となる。
称徳天皇は生涯独身で子も兄弟もなく、
父である聖武天皇にも兄弟がなく、
称徳天皇を以って天武天皇の子孫は絶える事になる。




万葉仮名文書(762以前)

万葉仮名が実用が確認される最古のものは、
難波宮跡で発掘された652年以前の木簡である。
7世紀半ばには実用化されていた事になる。
この書は、当時の通常業務の記録体として、
万葉仮名が一般化し常用されていた事を物語る。
漢字は5世紀頃に我が国に伝わったが、
固有名詞を漢字で表現する不自由さ、
また、
中国語にはない助詞、助動詞が多く使われる歌の表記の不具合さなどから、
固有名詞、助詞、助動詞などを音訓で表す「仮名」が生じ、
漢字の意味とは関係なく漢字の音訓を借用し日本語を表記するようになった。
これが万葉仮名である。
かくして、
漢字で表される所は漢字で、表さられない所は仮名でと言う、
日本独特の漢字仮名交じりの文体が成立し今日に到るのである。

実は、この仮名的用法は、
漢字の本家で有る中国に於いても早くから用いられていた。
インド仏教の伝来に伴う固有名詞、仏陀(Buddha),卒塔婆(Stupa),
などの用法が見られる。 朝鮮に於いても同様の用法が見られ、
仮名文字が我が国独自の発明とは言い切れないのである。

和可夜之奈比乃可波利爾波(わかやしなひのかはりには)
我が養いの代わりには、の意。




大伴家持・太政官符自署(772)

大伴家持(718-785)
奈良時代の政治家、歌人、三十六歌仙の一人。
大伴氏は大和朝廷以来の武門の家柄であり、
祖父安麻呂、父旅人と同じく政治家として歴史に名を残す。
決して政治家としては恵まれなかったが、
天平の政争の中で中納言までの地位に昇る。
万葉集の編者とされており、
彼の長歌・短歌など473首が万葉集に収められている。
万葉集全体の10%を超えている。
彼の書として現存するのは、
この太政官符の自署のみである。
武人としての無骨さ、歌人としての華やかさを兼ね揃えた書だ。

百人一首に、
かささぎのわたせる橋におく霜のしろきをみれば夜ぞふけにける


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引用文献
講談社刊:古筆から現代書道まで墨美の鑑賞
講談社:日本の書
東京書道研究院刊:書の歴史
講談社:日本書跡全集
大修館書店刊:漢字の歴史
平凡社刊:字統
平凡社刊:名筆百選
創元社:書道入門
平凡社:書道全集
講談社:現代書道全集
二玄社:書の宇宙




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