書の歴史10/隋の書

まず、智永を挙げねば成るまい。
王羲之父子以降、
南朝では南朝末の智永までさしたる書家は現れていない。
智永は王羲之の7代目の子孫と言われるが生没年は明らかではないが、
陳から隋へ、書家の名を欲しいままにしたようだ。

30年間もの間、寺に籠もり、王羲之を習ったと言う。
その間に書したのが真草千字文だ。
江東の諸寺に800巻を寄進奉納し、
使った筆が大籠に5杯も有ったとの言い伝えがある。

王羲之の正統を受け継いだと言われる真草千字文は、
真(楷書)と草(草書)の二体で書かれている。

南朝特有の艶かしさ、華麗さ、優美さが垣間見られる。

智永・真草千字文

智永は当時の時の人であったのだろう。
彼の書を求めて日参する人の多さで居間の敷居の消耗が激しく、
鉄板で補ったと言う逸話が残っている。
「鉄門限」と言われる。
少年時代の虞世南は智永に書を習ったと言う話も有る。

真草千字文臨書

真草千字文は奈良時代に我が国に伝来した残された唯一の真蹟本であり、
国宝に指定されている。



北周の外戚である宰相楊堅が北周を奪い(581年)、
国号を隋と改めた。
更に南朝の陳王朝を倒し(589年)南北を統一した。
東晋が南に移ってから実に273年振りの快挙だ。

これに伴い、
南北に分かれていた文化も瞬く間に融合し、
ここに新しい文化が作り出された。

書に於いても、北方の険しさ厳しさを保ちながら、
南方の温雅な書風を取り入れ、
王羲之の書風が全土に行き渡って行く。

その先導とななり初唐の諸家の先鋒として存在感を示すのは龍蔵寺碑だ。

龍蔵寺碑(586)

   北方の厳しさは既に影を潜めてはいるものの、
北方の気風の残る骨格と整斉さの中に、
おだやかな叙情味すら覚え、
南方独特のしなやかな転折や波法がみられる。
後年、南北の書風を融合した新しい様式と称され、
    やがて来る初唐の
虞世南、欧陽詢、褚遂良へと脈々と連なり楷書の完成をみるのである。

龍蔵寺碑臨書



董美人墓碑(597)

董美人墓碑(597)

この碑は清時代に発見されたが、
後の太平天国の乱で所在不明となった。
この碑の作者は不明であるが、
良く均整の取れた骨格、自信に満ちた点画から醸し出る力強い筆勢、
一字一字から迸り出る気品、優雅さ、
これ等を勘案すると、当時の大家の作であると考えられる。


引用文献
講談社刊:古筆から現代書道まで墨美の鑑賞
東京書道研究院刊:書の歴史
芸術新聞社刊:中国書道史
木耳社刊:中国書道史(上卷)(下巻)
二玄社刊:中国法書選
芸術新聞社刊:中国書道史の旅
大修館書店刊:漢字の歴史
平凡社刊:字統
平凡社刊:名筆百選
講談社刊:古代中国

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