篆書1

便宜上、甲骨文、金文と素材面での分類したが、
甲骨文、金文も字体そのものは篆書体である。

西周の最後の王・幽王は后・褒?(ほうじ)は絶世の美女だったが、
彼女は決して笑顔を見せなかった。
彼女を溺愛した幽王は彼女の笑顔を見たさに様々な手段を講じた。
或る時、彼女は高級な絹を裂く音を聞いて微かに微笑んだ。
幽王は全国から大量の絹を集めてそれを引き裂いたが、次第に微笑が減っていった。
と或る時、有事でもないのに手違いで烽火が上がり、
諸侯が慌てふためいて王宮に駆け参じた時、
その有様を見た褒?(ほうじ)がカラカラと笑った。
再び褒?(ほうじ)の笑顔を見たさに幽王は幾度も烽火をあげ諸侯を集めた。
後に真の反乱が起きた時、烽火を上げたが誰も馳せ参じる者がなく、
あっ気なく西周は滅びるのである。
褒?(ほうじ)が滅多に笑わなかったのには訳がある。
彼女は褒の国が周に負けたときに、
献上品として差し出され幽王の寵妃になったのだ。
国を滅ぼされた恨み、
恋人と裂かれた辛み、
そんな恨み辛みが有ったというが如何。


西周王朝滅亡が紀元前771年、
始皇帝が全国統一したのが紀元前221年、
周王朝の支配力が弱まるこの500有余年を春秋戦国時代と呼ぶ。
乱立した諸侯が競い合い当初200有余の大小国も次第に淘汰され、
七大国が覇を争う戦国時代に突入する。
各国は他国を凌いで主導権を勝ち取るべく自国を強化に凌ぎを削る、
政治的、社会的に如何に新政策を打ち出すかに心血を注ぐのである。
謂わば自由競争の時代であった。
各国は優れた学者、思想家を求め合った。
所謂、諸子百家であり、後の中国の諸思想の基礎となるのである、
その先駆者が孔子であり、
墨子、老子、荘子、孟子、荀子、韓非子と、
華々しい百家争鳴の幕が開くのだ。
それぞれの国家が独自の制度法令を作ると、
当然、文字も分化し各国が独自の文字表現をしはじめる。

この時代になると、文字を書き記す素材は、
従来の甲骨、青銅器から、石、玉、布等に多様化し、
磨崖碑や石碑、絹地に書かれた 帛書(はくしょ)などとして、
次の時代に繋がってゆく。

当然、諸侯間の同盟、裏切り、内紛は日常茶飯事で有ったであろう。
国家間、或いは国内の家臣との間で結ばれた同盟の証となった盟書が残っている。
先の尖った石、玉などに筆を用い朱で書かれているものが多い。
朱は元来、血であったとも言われる、所謂、血書なのだろう。

侯馬盟書

青銅器等への形式的な銘文と違い、当時の日用書に近い文字で書かれているに違いない。

侯馬盟書臨

1965年、越王勾践の銘文の刻まれた剣が発見された。
「臥薪嘗胆」の故事で名高い越王勾践だ。
「呉越同舟」と言われる程の因縁深い呉と越の争い、
越王句践に滅ぼされた呉王闔閭の子,夫差(ふさ)は越王句践を激しく怨み、
復讐を誓い,薪の上で寝起きし、恨み忘れぬよう耐え(臥薪)、
軍事強化に励み、遂には越軍を打ち破る。
敗れた越王句践は夫差の奴隷となる。
しかし、句践は肝を嘗め苦さを味わい(嘗胆)、夫差への復讐を誓った。
越は密かに国力を蓄え、軍事力を養う一方、呉の国力を弱体化すべく数々の策を講じた。
その一つが呉王夫差への美女の献上であった。
多くの美女の中から選び抜かれたのが西施である。
呉王夫差は西施の美貌、女色に溺れ、遂には越王句践に滅ばされるのである。
美観で名高い西湖は西施の名に因んだという。
西湖付近は中国でも有数の美人の郷として知られている。

その西施も眺めたかもしれない勾践の剣だ。
当時の技と美の限りを尽くした逸品だ、
墓の中で発見された時、鮮やかな光を発していたと言う。
銘文は華やかな鳥文で書かれ、
当時の絢爛豪華な王宮での暮らし振りが伝わってくる。
越王勾践剣

越王勾践剣臨

全国統一するより以前の秦の遺物とされる石鼓、
石に刻み込まれた文字としては最古とされている。
後に流行する石碑の起源である。
石鼓は唐代に発見され、
当時から古字を刻んだ貴重なものとして評価されていた。
唐から秦をかえりみれば約1000年、我々が唐をかえりみるのとそう変わらない。

石鼓文



戦国時代の秦で作られた珍しい青銅器がある。
食器の一つであるが銘文が名高い。
内容は秦国臣民の団結を促すものだが、
用いられている文字は自由奔放、
伸び伸びとしているが何処かに風格を感じる。
この食器の文字で画期的なのは、
もしかしたら、この文字を描いた方法が印刷の起源かも知れないのだ。
書かれた文字の12種の文字は同じ文字が二度使われているが、
その文字は大きさから字画から全く同じ文字なのだ。
即ち、現代の活字の様なものを用いたと推測されるのだ。

秦公?(き)



紀元前221年、
中国を統一した始皇帝は中央集権の実現に向け、
郡県制度の施行、文字、車軌の統一、度量衡、貨幣制度の統一等の諸政策を講じた。
一方で、思想統一を図るべく強行したのが、
460人もの儒者を生き埋めにした「焚書坑儒」である。

つづく

引用文献
講談社刊:古筆から現代書道まで墨美の鑑賞
東京書道研究院刊:書の歴史
芸術新聞社刊:中国書道史
木耳社刊:中国書道史(上卷)(下巻)
二玄社刊:中国法書選
芸術新聞社刊:中国書道史の旅
大修館書店刊:漢字の歴史
平凡社刊:字統
平凡社刊:名筆百選
講談社刊:古代中国


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