金文

「鼎の軽重を問う」と言う故事がある。
鼎は王権の象徴であった。
殷代後半からだろうか、
王族の厳粛な儀式を執り行うのに欠かせないのが鼎であった。
青銅器製法が何処からどのように伝わったのかは明らかではないが、
殷を経て周代に世界に類を見ない青銅器文明が花開くのである。
青銅器に鋳込んだり彫ったりした文字を総称して金文と言う。

金文は甲骨文字とほぼ同じ殷時代から発展したものとされているが、
決定的に違うのは、
甲骨文字が発見されたのがほんの100年ほど前なのに対し、
金文は既に漢代から発見記録が残り宋代には本格的な研究が始まっていり。
長い間、金文学、金石学として中国文字研究の中核をなしてきているのである。

金文は、後世になって書かれた書物である史記などとは違い当時の実録実記であり、
当時代を研究する上で貴重な資料となっている。
しかし、当時の青銅器は古美術品としての価値の高さから、
当時の収集家などの個人的な蒐集品として秘蔵され、
また、盗掘等によりその出所や出土時期などが不明確なものが多く、
一連の研究を妨げていた。

殷代後半に多くみられる甲骨の使用は周代に入ると急速に衰え、
青銅器の使用が盛んにな金文の全盛期を迎える。
殷代では青銅器は専ら祭祀の場で使われ、
銘文の内容は祖先、部族、身分等を表す紋章図象記号の様なもので、
銘文も殆ど10字に満たないものが多い。

司母戌大方鼎

司母戌大方鼎臨書

周時代になると
神聖なものであった青銅器が、鋳造者の功績等を称える記念品の意味が強まり、
銘文の内容も、主君からの賜物、君主の命令、家族の記念、裁判の記録、
部族間の契約等々多彩となってきた。

当時の武将盂が庚王より賜った策命を記念した大盂鼎は西周前期の作とされる。
当時の筆写体が正確に残されていて貴重この上ないこともさることながら、
この銘文である策名は、官職、土地を与える辞令であり、
当時の政治思想を示す歴史学上の多くの情報をも与えているのである。
書の歴史より外れるので詳細は省くが、
以後の中国の政治思想の根幹となる「天命」が読み取れるのだ。

大盂鼎

周王が老公に政治を託すという銘文のある毛公鼎は、

毛公鼎

西周後期(BC827)の頃の作と考えられている。
これまで発見された青銅器の中で最も長い銘文である。
清末に出土し数々の収集家の手を経て現在は台北故宮に安置されている。

甲骨文が硬い骨にナイフで刻み付けた直線的な鋭く細い線からなる文字であるのに対し、
初期の金文は、
青銅器を鋳造する時に文章も鋳込んだものであり、
柔軟で曲線が多く装飾的な線からなる柔らい肉太な文字である。

大盂鼎臨書 毛公鼎臨書

大盂鼎、毛公鼎は周代前後期を代表する青銅器の双璧といわれる。

このように、青銅器は子々孫々に伝える宝器として造られたものであり、
器形や紋様と同じく銘文の内容・見栄えにも気を配り、
それなりの風格を持たせる必要があったのである。

 周王朝は紀元前1121年から前256年まで続く。
前1121年から前770年までを西周、
都を洛陽に移した前770年から前256年(前222年説もある)までを東周と言う。
東周時代には周王朝の権力は失墜し、
諸侯が覇を争う群雄割拠の時代が到来する。
これが春秋戦国時代である。

地方色が強まると文字表現も、
地方ごとに独特な雰囲気の装飾的な文字が出現するようになる。
又、西周時代の金文は鋳込んだ鋳款が多かったが、
春秋戦国時代になると、刻み込んだ刻款が多くなる。
自由奔放で重量感の有った筆勢も繊細になり活き活きとし表現になってくる。

曾国出土曾侯乙編鐘 中山国出土中山王?方壷 礎国出土礎王墓出土鼎

曾侯乙編鐘臨書 中山王?方壷臨書 礎王墓出土鼎臨書

均整の取れた構成、一本一本の線の美しさ、清清しさ、
一字一字もさることながら全体としての淀みない調和、
当時の書家の命がけの美の追求が垣間見られる。
我々の臨ではとても表現し切れない。

この時代になると、文字を書き記す素材は、
従来の甲骨、青銅器から、石、玉、布等に多様化し、
磨崖碑や石碑、絹地に書かれた 帛書(はくしょ)などとして次の時代に展開してゆく。
かくして、
神への問い掛けとして作られてきた文字が、
人と人との情報伝達の道具としての一般化するのである。


引用文献
講談社刊:古筆から現代書道まで墨美の鑑賞
東京書道研究院刊:書の歴史
芸術新聞社刊:中国書道史
木耳社刊:中国書道史(上卷)(下巻)
二玄社刊:中国法書選
芸術新聞社刊:中国書道史の旅
大修館書店刊:漢字の歴史
平凡社刊:字統
平凡社刊:名筆百選
講談社刊:古代中国

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