甲骨文字1

清王朝末期の1899年、
北京に住む金石学者の王懿栄は持病のマラリヤに悩まされていた。
当時、彼は「竜骨」と呼ばれるマラリヤの特効薬を愛用していた。
古来、中国では哺乳動物などの化石骨を「竜骨」と呼び、
薬材として珍重していたのだ。
恐らく、王懿栄の元には多種多様の「竜骨」が有ったと予想される。
或る日、王懿栄は彼の弟子で食客として居候をしていた劉鉄雲と、
何時ものように「竜骨」を粉にする作業をやり始めた。
と、その時、
「先生、この竜骨の上に何か刻まれていますよ、もしかしたら、文字では無いでしょうか」
「どれどれ・・・、うーん、これは古代の文字かも知れんぞ」
金石学 に覚えのある二人の脳裏に戦慄が走ったに違いない。
二人は文字らしきものが刻まれた「竜骨」を更に多く求め集め、
眺め回し、これは古代文字に違いないと確信する。

王懿栄の不慮の死後も劉鶚は更に「竜骨」を蒐集し、
5000点を越える中から1,058片を厳選し拓本を取り「鉄雲蔵亀」として発表した。

劉鉄雲

こうして甲骨文字 が世に示されると、
当時の学会の脚光を浴びることになる。
有能な研究者も続々と研究に参加し始めた。


一方、
甲骨が世に知れ渡り甲骨収集がブームとなると、
甲骨を扱う骨董商は甲骨の値段を吊り上げ始めた。
収集者は多く安く甲骨を収集しようと出所を知りたがったが、
骨董商はのらりくらりとして出所を明かさず、
むしろ、虚偽の場所を示し収集者達を混乱せしめた。
骨董商の企業秘密であったのだ。

もう一方、
甲骨の出所地である農村では村中の村民が甲骨堀りに狂い出し、
甲骨発掘の権利を巡り地主と農民の間に諍いが頻発するにまでに至ったのである。
農民達は、
従来は「竜骨」の価値を高めるために、
表面の文字を削り落としさえしていたのが、
文字らしきものが刻まれた「竜骨」が高価で売れると知れ渡ると、
何も刻まれてない甲骨に文字を刻んだ偽物までも作らられ始めた。
このような偽物が今日でも残っている。

甲骨学としての基礎を固めたのは、
劉鶚の友人羅振玉と羅振玉の娘婿である王国維である。
羅振玉 王国維

羅振玉は、更に幅広く甲骨を収集し、「殷商貞ト文字考」を著す。
1910年、彼は、様々な辛苦を経て、
甲骨の出所が安陽県の小屯と呼ばれる農寒村と突き止める。
これは歴史の残る画期的な快挙であった。
「史記」に、
「項羽が秦の将軍と?水のほとりの殷墟で会見した」
との記述があるが、
その小屯は古くから殷墟と呼ばれていた。
伝説の殷墟を実在の殷墟に結びつけたのだ。

花媚

羅振玉と王国維は、
辛亥革命で清朝が崩壊すると日本に亡命する。
羅振玉は収集した甲骨資料を日本に持込み、
日本亡命中も研究を積み重ね次々に書物を発表し、
甲骨文字解読の基礎を築くのである。


王国維は甲骨に記されている帝の名前と、
「史記」にある殷の帝の系譜がほぼ一致するのを発見した。
これは、伝説の殷墟を実在の殷墟と実証するものとして、
古代史研究の於ける甲骨文の価値を一層高めたのであった。

1928年、菫作賓を中心に大規模な殷墟発掘が始められ、
日中戦争で中断されるまで十数回の発掘が行われた。
ここで2万5千にも及ぶ甲骨をはじめ、宮殿跡、銅器・玉器・石器・骨器、
更に小屯の郊外から王墓などが発掘され、
「史記」に記されていた伝説の殷王朝の実在が余儀ないところとなるである。

後に菫作賓は膨大な甲骨資料の整理し、「殷暦譜」を完成する。
2世紀以上にわたる甲骨を、字形、書風、文法、等から、
初期の武丁から末期の帝乙・帝紂までの5期に分類区分したのだ。

菫作賓 郭沫若

甲骨文字に深い造詣を持ち輝かしい成果を上げたもう一人の人物は郭沫若である。
彼は独自の歴史観で古代中国を論じたが、その考証に広く甲骨文字を引用した。
それまで発見されている甲骨全て網羅分類した「甲骨文合集(第一集)」が出版されたのは1979年、
この編集を中心に進めて来た郭沫若はその前年に亡くなっている。

それまでに発見された甲骨は16万片、
甲骨文字の数は約4500、
解読されている文字は約2000、
と言われている。


殷人は信心深く、殷朝は典型的な神権政治を執り、
重要な意思決定は全て占いに基づいた。
その占いに用いられたのが、亀の甲羅や牛や鹿の肩胛骨である。
珍しくは、鹿の角、人間の頭蓋骨の例もある。
これらの骨・甲羅などの裏側にすり鉢状のくぼみをつけ、
そのくぼみに燃え木(熱した青銅製金属棒とも言われる)差し込む。
表側に生じたひび割れの割れ目の形で占い、判断を甲骨に刻み付けた。
更に、占いに対しての結果も刻まれた。
これらの文字が甲骨文である。

甲骨文に記された占いの内容は、祭礼、戦争、農作、狩猟、人事、出産、病気、天候、に及ぶ。
占いばかりでなく、稀には、暦、甲骨の保管等の記述も見られる。

驚かされるのは、これらは単なる記録に留まらず、
文字の配置、構成等の巧みさ美しさには、
古代人の美的感覚が垣間見られるのだ。
今日、我々はその芸術性の高さに魅せられ驚くのだが、
古今を問わず、美しさを追求する精神の様なものが、
人間の奥底に秘められているのであろう。

魚児 舞遊
一寸、脇道にそれるが、
ここで、絶世の美女、妲己が登場する。
殷朝最後の王、
紂王は極めて聡明で知力胆力腕力にも秀でていた聖君であった。
しかし、何時しか妲己の色欲に溺れ、堕落の一歩を辿る。
民に重税を課し、刃向かう者、意に沿わない者を徹底的に弾圧し、
油を塗った胴柱に火を付け池の上に渡し、罪人を歩かせて落ちるのを楽しむなど、
残忍な刑を科したと言われる。
度を過ぎた享楽「酒池肉林」の由来は紂王に有る。
彼は、肉を天井から吊るし林に見立て、
酒を溜めて池に見立て、欲しいままにこれらを飲み食いしたと言う。
一方で、殷伝統の神を重んずる考え方に反した行動も多かった。
そんなことから、諸侯や人民の失望を買い、
紀元前1550年頃から紀元前1100年頃まで続いた殷王朝 は、
太公望と周武王らの殷周革命で、
滅び去ってしまうのである。
ここで美女妲己の為に弁明しておく。
妲己悪女説は、
何時の世でも同じように殷を滅ぼした周が周朝を正当化すべく、
紂王を暴君、妲己を悪女にしたてあげた、というのが専らの通説だ。

もう一つ余談。
殷の正式な国号は「商」であった。
周によって滅ぼされた殷民族は宋に追いやられたが、
宋は豊かな土地ではなかった。
殷の人々は交易に活路を見出す。
これが「商業」、「商人」の語源という。

かくして、殷王朝の存在が歴史上の事実として明らかにされたが、
その後の研究で
殷王朝の前の王朝、夏王朝 の存在も明らかに成りつつある。
1990年までに、合計41回の二里頭遺跡が発掘された。
二カ所の宮殿址、住居址五十余、青銅器の工房址、大量の青銅器、
トルコ石の象嵌を施した青銅製の牌飾などが出土し、
夏王朝が二里頭に存在したとする確度が高まった。
夏王朝の期間は「紀元前2070年から紀元前1600年」とされている。
殷王朝に於ける甲骨の如き、夏王朝の存在を実証するものは見付かっていないようだ。
更に2004年には、
夏王朝の王城と見られる巨大な宮殿址が発見されたと報道されている。
しかし、前述の記号・符号・紋章らしきものと甲骨文との断絶は未だ埋まっていない。



引用文献
講談社刊:古筆から現代書道まで墨美の鑑賞
東京書道研究院刊:書の歴史
芸術新聞社刊:中国書道史
木耳社刊:中国書道史(上卷)(下巻)
二玄社刊:中国法書選
芸術新聞社刊:中国書道史の旅
大修館書店刊:漢字の歴史
平凡社刊:字統
平凡社刊:名筆百選
講談社刊:古代中国

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