晩唐の書(2)

顔真卿(709-785)
早くから、時の権力者である楊国忠に反駁するなど清廉潔白で聞こえ、
安禄山の変に於いても孤軍奮闘し無類の剛直さを示した。
その後も常に正論を吐き、時の権力者に憎まれ幾度と無く左遷される。
李希烈の乱では敢然と死地に赴き、最後まで節を崩さず縊殺される。
日本で言うと、「桐一葉」の片桐且元に近いのかな。

顔氏は代々学識を以って知られ能書家も多く輩出した家系であった。
顔真卿も幼時からその影響を受け、
特に篆書、隷書を深く学び、これが顔法の楷書の基礎になったと言われる。
そのような環境もさることながら、
彼の人格、剛直無比の精神が、
自由な人間性に溢れる新書風を生む基盤だったのであろう。
勇壮強固な外観の内側に、
繊細さ、暖かさ、包容力を秘めている。
書もそうだが人間的な魅力を感じる。
もし彼が現存して、
「最も望ましい上司は」
或いは、
「こんな先生に習ってみた」
では高い人気を得るのではないだろうか。

顔真卿は張旭に書の極意を伝授されたと言う。
その極意とは「印印泥」「錐書沙」、
即ち、用筆は封印する泥に上に印を押すように書く。
そして、砂の上で錐で書くように書く。
要するに正筆の蔵鋒だ。
筆を立てて隠した筆先が線の中央を通る。

千福寺多宝塔碑(752)
残されている顔真卿の書の中で最も若い時の書。
後年の顔法の完成には至っていないが、
若さの中に強さ、豊かさが見られれ、
既に非凡さを顕らかにしている。
フンフンと頷きながら書ける字だ。

千福寺多宝塔碑



祭姪文稿(758)
安禄山の乱で戦死した従兄弟の子・季明に捧げた弔辞の草稿。
壮烈な戦いで死んでいった一族の若者を悼み惜む悲憤さを、
淡々と自然に書き流している。
後述の祭伯父文稿、争坐位帖と合わせ三稿として名高い。

祭姪文稿


祭伯父文稿(758)
前述の季明の父・杲卿、と祖父・元孫、即ち顔真卿の伯父一族は
ことごとく戦死したが、その表彰を告げた文の草稿である。
祭姪文稿に比して穏やかで柔らかいと評されているが、
どうだろうか。

祭伯父文稿





争坐位帖(764)
百家集会の席で席次を乱した者に抗議したものだが、
いかにも顔真卿の一徹振りを物語る。
懇々と義を説き、滋味、人間味に溢れる書だ。
字形、線質が自在に変幻し、リズムを刻みながら流れる。

王羲之が書の造形美を完成させたのに対し、
顔真卿は外形よりも内容的な、
人間性を書に盛り込むことを大成した。
この書がその典型と言われる。

争坐位帖




麻姑仙壇記(771)
麻姑とは容姿端麗な17,9才の少女の女仙である。
実直な顔真卿との取り合わせが実に面白い。
麻姑の爪は鳥の爪のようで背中の痒いところに快い、
孫の手の元祖とも言われる麻姑だ。

麻古仙壇記




顔勤禮碑(779)
顔真卿が曽祖父勤禮の為に建てた碑。
顔法書風の代表的作品である。
蔵鋒の極致を示している。

顔勤禮碑




顔氏家廟碑(780)
これは父惟貞の為に建てた碑。
李陽冰が篆額を書いている。

顔氏家廟碑


送斐将軍詩
楷行草の入り混じ、大小、長短、肥痩、正斜と変化に富む。
筆法も、漢隷、北魏碑、更に張旭、懐素風も見られ興が尽きない。

送斐将軍詩




李陽冰(?)
漢魏以来絶たれていた篆書を復活させ、
唐代の篆書の大家として名高い。
杜甫の甥との説も有る。

顔氏家廟碑篆額
顔真卿とは実懇の仲だったの有ろう。

顔氏家廟碑篆額




般若臺題記(772)
原石のまま伝えられている摩崖で、貴重とされている。

般若臺題記





柳公権(778-865)
中国の大中小都市の本屋を覗くと、書法関係の棚で、
とりわけ目に付くのが柳公権の書だ。
書法初学者の入門に最適の範本とされているのだ。
柳公権は王羲之を学んだ後に顔真卿を学んだが、
顔法以外にも初唐書家の書風を吸収し、
骨のような力強さを増した顔筋柳骨の書体を形成した。

金剛般若経(824)
1908年、ペリオが敦煌窟で発見した唐拓である。
顔真卿の書風と欧陽洵の書風が覗われる、二人の中間に位する書風だ。

金剛般若経




玄祕塔碑(841)
柳公権の楷書の代表作。
顔筋柳骨の書体の骨頂と言える。

玄祕塔碑

引用文献
講談社刊:古筆から現代書道まで墨美の鑑賞
東京書道研究院刊:書の歴史
芸術新聞社刊:中国書道史
木耳社刊:中国書道史(上卷)(下巻)
二玄社刊:中国法書選
芸術新聞社刊:中国書道史の旅
大修館書店刊:漢字の歴史
平凡社刊:字統
平凡社刊:名筆百選
講談社刊:古代中国
創元社:書道入門
平凡社:書道全集第8巻、第10巻
講談社:現代書道全集
二玄社:書の宇宙


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