濾沽湖記2

 子供連れの同客は重慶人、その重慶人のカメラの具合が悪い。 住所とE―MAILアドレスを貰い写真を送って上げる約束をする。 もう一組の中年の夫婦は怪しい仲のようだ。


 一泊ツアーの彼等はお昼前に帰って行った。
 私はツアーから離れて単独行動、12時に建蔚のお兄さんが迎えに来る事になっている。
 兎に角宿だけは確保しておこうと宿の主人に、
「もう一晩泊まりたいけど?」
「申し訳有りません、今夜は予約で満員です」
まあ、何とか成るだろう。
 麗江を出る時邵が、
「もし宿が見付からなかったらここに電話して」
と言われているメモを宿の主人に示すと、彼は直ぐ電話を掛ける。
話しが通じたらしい、その「アカダマ」さんの家まで送ってくれた。

 男性と思った「アカダマ」さんは女性、民宿の経営者らしい。
その家も客でごった返していて、「アカダマ」さんは客の応対で走り回っている。
「ここで待ってて下さい」
と案内されたのは、庭を挟んで幾つか有る校倉造りの棟の一つ、摩梭人の民家のようだ。

 30畳位の部屋の正面に神棚、その前の囲炉裏から濛々と煙が天井に突き抜ける。
囲炉裏の周囲は10人ほどの先客でつまっている。
其の中の一人が、隅の方へ腰を下ろした私に、
「こっちへ来ませんか?」
と席を詰める。
 話を聞くと昆明の近くの玉渓というところから来た会社の団体旅行らしい。
私が日本人と知ると、若い女の子達が興味を示す。
「富士山」「東京」「大阪」、「バッキャロー」も出て来た。
 彼女達の興味は日本までの旅行費用、大体の額を示すと皆溜息をついて下を向いた。

 中国人の挨拶は変わっている。
良く知ってる仲だと普通、「こんにちは」とか「今晩は」とかは余り言わない。
「ご飯食べた?」
「何処へ行くの?」
が一般的な挨拶、初対面だと相手の身の上を訪ねるのが礼儀の様だ.。
それとお金の事、直ぐに、
「それ幾らするの?」
「それ幾らだった?」
とくる。
私が定年後の旅を楽しんでると知って、中年の男が、
「退職金は幾ら?」
ときた。
 こういう時が一番困る、機転が利かないと言うか、といって嘘もつけない。
 カミさんの話で恐縮だが、押し売りなどが来てもカミさんは一言で撃退するのに、
私の場合は座り込まれる事がしばしばだ。
「大体、○○○万円」
と言うと男も下を向いた。


濾沽湖記5
 建蔚の兄との約束の12時が過ぎた、「アカダマ」さんは忙しそうだ。
場所を変えてしまって、どうしたものか思案していると、ひょっくり彼が顔を出した。
 彼は「アカダマ」さんと何か話していたが、
「私の家に来て」
と私を連れ出す。
濾沽湖に面した一本の通りに民宿、土産物屋、食堂などが並んでいる。
その2、3軒置いた隣に案内される、彼の家だ。

 通りに面して西洋風の食堂、裏に抜けると広い中庭、
其の周囲に校倉造りの幾つかの棟、その一つが居間になっている。
さっきの「アカダマ」さんの家の居間と全く同じ造りだ。
 私が摩梭人に熱い興味を持っているのを建蔚から聞いているらしく、座るまでも無く彼はいろいろ説明し出した。

 高い天井、骨組みの太い裸木が古さと煤で黒光りしている。
 神棚の様なものが二つ有る、一つは達巴教、もう一つはラマ教、彼等は二つの神を信じる。
日本の神と仏のようなものか。


 達巴教は2000年から3000年以来、ラマ教は500年位前からこの地に伝わった。
達巴教は火の神、ナシ族の東巴教は達巴教から分かれたと彼は言う。
達巴教の道義を説明してくれてるらしいが全く判らない。
 火の神の前に火を絶やす事のない囲炉裏、その囲炉裏には3本足の五徳?の様なものが有る。
先祖代々伝わってきた物らしい。 
その3本足の意味を熱っぽく説明してくれるのだが私にはその1本が祖先とだけしか理解出来ない。
 毎日、朝一番に火の神に供物をし祈りを捧げる。
 部屋の左右に大きな柱、左が女柱、右が男柱。
 これは元々一本の木を半分にして、根本の方が女柱、先の方が男柱、
「全て女人が根だからだ」
当然だと言うように彼の目がキラキラ輝く。

 彼の名前はダシラチツオ(打史拉錯)、摩梭名だ。
建蔚の摩梭名はガザドジニ(格則多杰)。
漢字は当て字、元来彼等には文字が無い。
(古代文字が幾つか残っているが暦などに用いられた特殊文字で一般には用いられていない、
まだ解読されていないとの聞く)
「我々摩梭人は文字を持ってません。 全ての事が、説(話す)と唱(歌う)で先祖代代伝承されてきました」
説はともかく、唱は我々の身近にある歌とは意味が異なる、重さが違う。

 表の方で子供の泣き声、ダシラチツオが飛び出して行って幼児を抱えて来た。
泣きじゃくる子供をあやしたり、叱ったり、何か食べさせたり、
「貴方の子供は幾つ?」
と聞くと、
「いや、私の子供ではない、妹の子供だ」
「結婚してないの?」
「してない、摩梭人には結婚の習慣は無い。
夜だけ妻の家に行き、昼間は家に戻って来る。
子供は妻の家にいる」
少しも悪びれているところは無い、むしろ誇らしげだ。
 話に聞いていた所謂アチュウ、通い婚だ。
男は娶らず女は嫁さない、男性も女性も生家で一生を過ごす。
今でも其の風習が残っているとは聞いていたが、まさかこんな身近に接するとは思ってもいなかった。
 西洋風食堂と同じ敷地の中に古代の風習が有るのだ。

 妹さんが戻ってきて食事の支度を始めた、その間、彼は父親のように子供を抱いてあやす。
 摩梭人の子供と叔父、伯父の関係は深いと聞いていたが目の当たりに見て、成る程と肯ける。
生涯を生家で暮らす伯父叔父が子供の教育、先祖伝来の文化の伝承に重要な役割を占めているのだ。

 小さな膳に食事が並ぶ。
 あれも聞きたい、これも聞きたい、と気が焦るばかりで言葉にならない。
いきなり摩梭人の真髄に出会った局面に動転してしまったのだ。
そして、原始的を野蛮、粗暴、粗野、無知と取り違えていた混乱から立ち直れないのだ。

 一方で、熱っぽく話す彼の言葉を解せないもどかしさ、
私の中国語ではひとかけらも解せない難解さ、いや、よしんば中国語が解せたとしても解せない奥の深さだ。
 それにしても、もう少し中国語が...とつくづく思う、成田病のように。 


 文化、文明の意味、定義を再度確認したい。
 何千年もの隔離が築き上げた文化、我々には足元にも及ばない文化が有るのではないだろうか?
 精神的には我々の方が取り残されているのではないだろうか? 
 彼らから1000年も2000年も磨き上げられた珠玉の如き知性が覗われてならない。

 まだ若い母親の妹さんに何か家長のような風格さえ感じる。
 真摯と言う言葉がピッタリする彼等の物腰、伝統を重んじる生活態度、信仰心、、
1000年ものオーダー受け継げられてきた伝統、風習、習慣をしっかり守り更に子孫に伝え続け様としているのだ。 
新中国への移行時、文化革命時等、度重なる変革も伝統に押し戻されたのだろう。

「以前は昆明まで出るのに2日掛った、最近は1日で行けるようになった」
単位が日なのが面白い。 
山の幸、海(湖)の幸に恵まれ、俗界を遮断する僻地、
これが1000年2000年もの間、守り継がれている所以なのだろう。

 現地の人々の間でのトラブル、殺人はおろか盗難も皆無と聞く、勤勉善良なのだ。
 これが摩梭人生来のものなのか、1000年の伝統の造り出す規律のせいなのか、多分後者だと私は思う。



「店でコーヒーでも」
と言う彼の後に付く。
「今夜貴方はここに泊まって下さい」
と指差したのは西洋風食堂の二階、何の事はない、民宿だ。
 コーヒーを飲んで居ると、
「友人です」
と紹介されたのは、香港人、彼はイギリスへ二年留学経験がある。彼は此所が気に入り、
二階に住みつき店を手伝っているらしい。
「今夜、アメリカ人の友人がここへ来ます、
彼女達に摩梭人の風習風俗の説明をしますが良かったら貴方もどうぞ、ですが、英語の説明になります」

 夕方店に下りるとその二人への説明が始っている、暫く聞いていたが、本格的な英語でサッパリ判らない。
彼女達も友達に成りたいタイプではない。
「私は一寸散歩してきます」
と表に出る。





 濾沽湖に面した1km程の道に沿って立ち並ぶ土産物屋、民宿、商店は皆民家の改造だ、
改造中の民家も何軒か見受けられる、観光地化が進行している。人通りも結構多い、
白人もチラホラ居るが殆どが中国人のようだ。。
「この2、3日だけです、あとは静かなものです」



とダシラチツオが言ってたが。

 一軒の民宿の前で羊の丸焼き、鉄棒で突きぬかれた大きさは両手を広げたくらいある。
焚き火の上でひっくり返しひっくり返し、ゆったりと焼く。
しっきりなしに小刀で切れ目を入れ油をぬりたくりる。 
ぐるりぐるりとひっくり返される度に廻りに人垣から歓声があがる。
 誰かが、
「幾ら?」
「6元」
どの位の量か判らない。
焼き上がるまで2時間掛かる。


 あたりから別の匂いが漂って来る、懐かしい匂いだ。
 直ぐ脇で炭火の上の網に10cm程の小魚が焼き上がっている、
そちらに席を移し焼き魚をつまみにビールの喇叭飲みだ。

 民宿の中庭で民族踊りが佳境に入った。
 今日は雨も無く人垣も厚い、思うような写真が取れない。
余りの人の多さもさる事ながら、
シャッターチャンスがうまく捕らえられない、これがデジカメの致命的な欠点だ。





 そのうちに歌の掛け合いが始る。
民族衣装の男達のグループと女達のグループが甲高い声で歌の掛け合う。
これが歌垣というものなのだろう。 
在りし日の日本の遊び、腕を組んが2組が向かい合って下駄を放り出す、あの遊びの面影が有る。
もしかしたらこの歌垣が伝わってきた物かも判らない。 
 今度は民族衣装のグループと客達の歌の掛け合い、中国各地からの客達ご自慢の民謡風の歌が続く。 
それぞれのグループが名乗りを挙げる、
「我々は○○から来ました、○○の歌を唄います」
その度に歓声が上がる。
 香港か台湾のグループの後は韓国のグループ、
「私達は韓国から着ました」
の挨拶に会場のざわめきがひときわ大きい。
日本は出てこなかった。まだ、日本からの団体客は来ていないようだ。


 翌早朝、ダシラチツオに別れの挨拶に行くと、
「まだ、帰って来てません」
妹さんの傍らに居る若い男が妹さんのアチュー相手らしい。

 バスの中から振り返ると、朝靄の中にルゴフが佇む。
一生の内にもう一度此所を訪れる事が有るだろうか?
もっと深く摩梭人の事を知りたいのだが...




 旅の目的が曖昧になってしまったが、旅としてはこの位が限度なのだろう。
 もう少し中国語が出来ればまた意義が変わってくるかもわからないが...
 いずれにしても、何かをかし毟りたい心境だ。

 帰って邵に濾沽湖ツアーの費用を精算しようとしてもがどうしても受け取らない。
 また借りを作ってしまった。

 



麗江で学友達と再会、麗江の街を名残惜しむ。j










濾沽湖記(完)



 
   
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