奥の細道記

まえがき:
古いネガの中に奥の細道の古い写真を見付けたのを機に、
1996年に掲載した奥の細道記をリニュウアルしてみました。
当時、NET上の俳句の会で知り合った仲間への報告です。
当初掲載した写真はプリントされたポジ写真をデジカメで撮影した物でしたが、
今回掲載の写真はネガフィルムから直接スキャンしたものです。
サイズも出来るだけ大きくしました。



Hさん Mさん お元気ですか!
奥の細道を少し歩いて来ました。

鬼首温泉
奥の細道のクライマックスと言われている奥州から出羽へのみちのりを、
尿前の関、封人の館、山刀伐峠、尾花沢、山寺まで車と足で辿ってみました。
尿前の関に入る前に名前に惹かれて訪れたのが鬼首(おにこうべ)温泉、
老舗のとどろき旅館、
色白なやや細面てな均整の取れた若奥さん、後で聞いたら5代目だとか、
の満面の笑みに迎え入れられました。
早速飛び込む露天風呂、なんと風呂が庭か庭が風呂か、



要するに庭中が風呂なんです。
熱い熱い温泉がトクトクトクとお風呂の中に湧いています。
例の如くに入れ口がふたつで中が一つ、でもこの日は客は私だけ、
もしもRさんでも入って来たらじっくりと俳句談義が出来たのに...

鶯が耳元まで来て鳴いています。
風呂を上がるのを計っていたように揚げたての山菜の天婦羅、焼き立ての鮎、
HさんやMさんの手前一句とは思うもののもう句どころではない心境です。
苦し紛れに一句、

老鶯や一人占めする露天風呂


清楚な若奥さんのしっとりとした135度のお辞儀に送られて庭園露天風呂をあとにする。
鬼頭間欠泉、
130℃の熱水が20分間隔で20m位の高さに10秒位吹き上げる。
20分弱待ってシャッター押したらカメラ動かない あと3枚ある筈が Eと間違えちゃった。
リコーのカメラも馬鹿には通用しない。
鳴子温泉まで下りて駅前のおみやげ屋を物色、
収集している「笛」と「小壷」を少し仕入れる。


尿前の関
義経が出羽から平泉に入った時 義経の幼子のなんとか丸が尿したのがいわれ、
とも言われいる奥州と出羽の交通の要所。
芭蕉がここで長時間足止め食らったのは、
彼が幕府の隠密ではないかと疑われたのが原因との説もある。
人っ子一人いないあたりに「尿前の関」の看板があり、
木の柵の囲いの中に芭蕉の像と碑がある。
最近整備されたらしい芭蕉の道の標示をを下っていくと
「尿前の関の跡」
の柵が一本、その目の前を高速道路工事中、
工事中の大きな橋桁のなかに芭蕉の道は続く。
振り返ると、
おお これぞおくのほそ道って感じの道が黄楊(?)の林の中に消えていく。
車を捨ててしばらくこの道を歩いてたどる。
いきなりの急坂、大変なもんだ。
月に一度位ならなんとかこなせるが毎日こんな道を歩いていたら命が幾つ有っても.......
芭蕉さんは何でこんな所え、車でなくて、歩いてきたんだろう。



えーと、
自然と一体化する。
わかる、でもそれだけではないなあー、
古人の心を求めて。
わかる、それもあったろう。
何か自分に対す何かがあったんであンすな。

義経と聞けば涙す都草
義経のややの尿や根切虫
尿前に芭蕉居座る五月かな
尿前や尿する時は皐月富士
尿前の常磐木落葉ほろほろと

ふと思ったのだが、
いかに「奥の細道」をキチット読んでいないかだ。
人の評論ばっかり読んでいる。
中身はともかく表面だって覚束ない。
そこへいくと土地の人は、とりあえず、ちと違う。





尿前の関に入る前の道すがら幾つか
「奥の細道......」
の看板(?)、標識(?)が立っている
例えば
「左へXメートル 奥の細道ゆかりの小黒崎」
「右へXメートル 奥の細道名所 美豆の小島」
「奥の細道」の一字一句も見逃していない。
当然「曽良日記」も含めて。
中には「おれんとこ」争いをしている所もあると聞く。
何しろ生活掛かってンから。
尿前の関を一寸ゆくと 日本こけし館 、こけしが数百並んでいる。
こけしに興味のある人には堪らない。


封人の家
47号線をずんずん進む。
おっと見過ごしそうな道路に面して「封人の家」があった。
静まり返っている。



おずおずと入れ口を探すと 小さな窓口に気難しそうな小父さん、
一歩中に入ると芭蕉の世界だ。
土間の右に厩、
土間を挟んで真ん中に囲炉裏のある板の間、
左に座敷が二つ。
芭蕉は左の手前の部屋に寝たらしい。
今まで馬小屋の一角のように想像していたが、建坪81坪。
代々の庄屋さんの家だとか。



芭蕉の寝たらしい部屋から厩までスッカラカンだ。
馬を何よりも大事にしたこの辺りの風習だろうが、
けたたましい音は間違いなく家中に響いた筈だ。
写真をとろうとセルフタイマーでもたもたしていると、



例の小父さんが出てきた。
「さすいん つって やんべか」
「むんな うろりばたで つるだア」
と囲炉裏端に座らせられた。



確かに絶好の配置だが、凄まじいピンボケ。

この辺りは中世から馬の名産地で明治以降は軍馬の指定地だったと。
芭蕉はこの「馬」のことを知っていたような気がしてならない。
「ぬつあぐりつうげ(山刀伐峠)(なたぎりとうげ)は、
もすかすっと 雪がぬくってンかも ウわかんねえど」

一つ棟に厩と座敷梅雨近し
ダービー近しがんばれがんばれ国産馬
みちのくの懐深き青田かな


山刀伐峠
今は峠の真下のトンネルで2、3分、で山刀伐峠を抜けられる。 
そのトンネルを横目に、目の前の旧道を峠に向かう。
車幅と同じくらいの道幅で急坂、急カーブの連続、
時々小枝が窓を掠める位は序の口で小枝が道に転がっている。
バシバシと小枝を踏み潰して進む。
「封人の家」の小父さんが云った
「もしかしたら 雪が残ってるかも判らないぞ」
が耳にこぶり付いてる。 
だんだん恐ろしくなってきたがやっと登ってきた道をバックで降りるのも癪に障る。
半分自棄糞で登っていくと、
なんと、みちの片側、一寸広まった所に車が停まっている。
山側にやっと通れるくらいの隙間があるが、ガレキがゴロゴロだ。
もう自棄糞でエイッとばかりに....案の定 ガリガリッ、
愛車フェアーレディZも山道には弱い、ウン万円の損害だ。
でも 何とか通り抜けられた。
とどうした事だ、今度は道いっぱいに雪の塊。
途方に暮れていると薮の中でゴソゴソ ゴソゴソ、
熊かと思って車に逃げ込んだら、人だ。
しかも車の持ち主だったのは日頃の行いのせいだ。 
二台の車をブーブー言わせながらともかくUターン出来た。

屈強な若者連れとはいえ芭蕉は凄い。
山刀伐峠行きを諦めてトンネルを抜けてしばらく行くと、
「山刀伐峠入れ口」
の標識がしっかり立っている。
こちらが正式の入り口なのだ。
旧道の入り口に標識が欲しい。
兎も角、再挑戦だ。
尾花沢側の道は比較的いい道だ、 ものの10分で頂上。
いや、昔の頂上はもう少し歩いて登らなければならない。
新緑の山道を登りつめる。
午後2時近くだというのに薄暗い頂上に立つ。
子宝地蔵、子持ち杉、句碑を拝す。



五月雨そぼ降る鬱蒼とした峠にただ一人、
もし薮の中からMさんでも現れたら腰を抜かすどころではない。
薄気味悪くて5分と居られない。
芭蕉もクショウもない、草々に退散。
つづら折りの車道を横切る昔の「おくのほそ道」に、
真新しい「歴史の道(おくの細道)」の標識は似合いでない。
それにしても大変なものだ、ハイキング道というより けもの道だ。
今では獣も通らないだろう。

当時、俳諧の宗匠として既に一家を成していた芭蕉がなんで安易な生活をすてて、
こんなところまで苦労をしにやって来たのだろうか。
..何故山に登るの
..何故お遍路するの
と同じ事なのかなぁ...
漂泊へのあこがれみたいのもあったんだろうなぁ...
軽薄で無責任な生活にドッポリ漬かってしまっている私に,
何かを語り掛けてくれた事は確かだ。 
ほうほうのていで山刀伐峠を逃げ出す。

新緑の山刀伐峠ひとはばむ
山刀伐の下闇厳し過ぎるかな


尾花沢の芭蕉清風歴史博物館



清風家に伝わる例の柿本人麻呂像の複製など眺めて吉原の高尾太夫を偲ぶ。

紅花や太夫を偲ぶ人麻呂像


山寺
途中天童で旨い蕎麦食って、
金ウン万円なりの将棋駒を衝動買いして、
いよいよ山寺に入る
この辺りの地名も山形市大字山寺だ。
山寺の真下の高砂屋旅館、御土産屋も兼ねている。
店番をしていた若女将が満面に笑みを浮かべて迎えてくれる。
今回の旅は美人にツイテル。
夕暮れまでに少し間がある、山寺への1000段の階段を難なく登り切る。
日頃二日酔いでの山登りで鍛えてあるからどうって事はない。

それにしても人が多い。 
が、どの老若男女も皆いい顔をしている。



山道を 一寸それると一面の著莪の花。
頂上近くの切り立った崖の上の開山堂で夕暮れを待つ。
眼下に大字山寺の全貌だ。



細い谷の底を線路と道と川が重なり合っている。
突然、耳元で
「ほう ほう」
と低音の美声、青葉木菟だ。
何時の間にか人影が絶えている。





後ろ髪を引かれるようにやまを下りる。
途中の小さなお宮は覗かなければよかった。

奪衣婆の石像だ。
此処から上は極楽 、下は地獄、世にも恐ろしい顔で見張っている。



宿へ戻るとまた笑顔だ。
風呂を上がると、湯気の立たんばかりの天婦羅と鮎の塩焼き、大好物だ。
質素だが目立たないように気配りのされた膳、



勘定したら一汁十菜。
十代目の女将だそうな、一人で切り盛りしてるようだ。
ビールの後、
熱い熱い熱燗が欲しくて一本づつ注文したら、
其の都度絶やさない笑顔で女将が階段を上がってくる。
余計な事は言わないが、何かしら情報を置いてゆく。
山寺は芭蕉は勿論 西行、雪舟も、茂吉、虚子、乙二、楸邨、年尾、秋桜子たちも訪れているのだそうだ。

山寺に人絶えてより青葉木菟
山寺の参道それて著莪の花


翌朝、帳場に声を掛けると、
もう 女将が 男の子と女の子の朝飯の世話を焼いている。
朝靄の中を再び山寺へ。
大きな銀杏の木の下に並んでいる芭蕉、年尾の句碑、犬が散歩してる。
参道の両脇に車の付いた木柱が所狭しと置いてある、
後生車といって この車を廻しながら念仏を唱えると早く生まれ変わるそうな。
下から崖を覗くと人骨が納められている岩穴が無数に見える。
少し登ると 蝉塚、勿論後世の人が建てたものだ。
ところで芭蕉が山寺を訪れた時、蝉が果たして鳴いていただろうか。
旧暦5月27日、陽暦7月13日。
小宮豊隆と誰かが蝉の種類論争をやったなんて話を聞いた事があるが。
まあ どうでもいいや。
宿に戻ると、
今度は女将はお婆さんの世話を焼いてる、良く働く。
如何にも真剣に生きている動きだ。
目がとてもいい。

山寺の茂りや穴や人の骨
緑陰に句碑を並べて虚子年尾
西行の芭蕉の頃や蟻の列
五月雨や南無阿弥陀仏後生車
木下闇此処が極楽浄土口
良く動く老舗の女将若葉風
門前に並ぶ粽の青さかな

御土産屋がズラリ並んだ狭い旧道をしばらく散策してから高砂屋を辞す。


山寺芭蕉記念館
あの女将の推薦だけ有って相当なもんだ。
芭蕉とその門流の筆跡がズラリと並んでいる。
数えて見る、芭蕉の筆跡が32ある、真筆も幾つか交じっている。
門流も 去来から始まって丈草、支考、許六....
その他 古俳書、墨画等々芭蕉関係の資料が豊富だ。
東京の水上バスで行く芭蕉なんとか館あたりとはスケールが違う。
それにしても芭蕉さん あちこちで人の求めに応じて沢山の句文懐紙をのこしている。
ふところからやおら懐紙を取り出して.....
では一筆、とか一度やってみたいものだ。

芭蕉記念館を山寺の駅の方に戻る。
結構、車が多くなってきている。
車引きと言うのか
「うちの駐車所に車、とめて!」
という感じで帽子を被ったおばさんたちが車を呼び込んでいる。
T字路を左に曲がろうとする私に手招きする一人のおばさん、
帽子をアミダに被っている 横顔が端正だ。
おばさんと目が合った。
高砂屋の女将だ !
女将も私に気づいたようだ。
相好崩した女将がバックミラーの中でしばらく手を振っていた。
参ったな もう。
みんな一生懸命ヤットルるんだなー、
俺達だけが戦士とばかりと.....
年甲斐もなく目頭が熱くなってしもうた。
今回の私のささやかな「奥の細道」のクライマックスはこのあたりのようだ。

生き様を女将が示す五月かな
生き様を女将に習う五月かな
生きるとは生きる事なり聖五月
生き様を示す女将や夏帽子
夏帽子キリリと人の道示す
夏帽子キリリと示す帰り道
夏帽子まともに人の顔を見る
夏帽子まともに人の顔を射る
母の日や心を込めて言うお礼
夏つばめ郷には郷のならいあり

どうもバシット決まらない
こうゆう時は少し離れると良いようなのだが離れられない。

還暦のぐるぐる回るまいまいよ




後記:
元来、自分の写真を公に曝すことは好かない方なのに、
自分の顔ばかりが画像に出て来て面映い。
まえがきで述べた通り、これは、特定の個人への報告であった。
また一方で、
写真を撮るのは「奥の細道」の其処に自分が居ること、
其処に居る自分を記念する事がおぼろげながらの目的であったことがうかがわれる。
旅よりも旅をしている自分を記録する事が重要だったのだ。
NETの有り様も全く想像も付かなかった方向へ変貌している。



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