京都記2 嵯峨野1


京都駅から愛宕念仏寺の前までバスで直行。
愛宕念仏寺から嵯峨野を嵐山までゆっくり歩く算段だ。

鎌倉時代作の仁王門

を潜ると、
ところせましと五百羅漢が並び立つ。


表情の一つ一つを眺めていると時間が経つのを忘れる。



1200体はあるそうだが、昭和以降の物らしい。
大体が、笑ってるか、幸せそうか、喜んでるか、
一寸探してみたが悲しそうな顔は見つからない。
怒っているようなのは一つ見つけた。
愛宕は「おたぎ」と読むのだそうだ。



水引が寄り添った一体を見付けた。
如何にも満足げだ。







触れると心を癒すと言うふれあい観音にそっと触れてみる。
何か癒された気がしないでもない。
もっとも、
この仏像たちを眺めて癒されない人間は居ないだろう。




嵯峨野を下り始める。



嵯峨鳥居本町並み保存地域とか、古い町並みが復元されている。


何か大きな団体の催しらしく、
胸に名札のような物をぶら下げた人々でごった返している。
道端で弁当を広げる人が多い。

お土産屋を覗きながら歩くと程なく化野念仏寺だ。




弘法大師が野ざらしの遺骸を埋葬したのが始まりとされる。
付近に散乱し無縁仏となっていた石仏を収集安置したと言う。
風雨に曝され風化した約8000体の石仏、そのどれもからもかっての表情は覗えない。


兼好法師があだし野を記し、
式子内親王、西行法師、もあだし野を詠んでいる。

暮るる間も待つべき世かはあだし野の松葉の露に嵐たつなり
誰とても留まるべきかあだし野の草の葉毎にすがる白露   

そのどれからも人の命の儚さが伝わってくる。
地蔵盆の千灯供養は一度経験したいものだ。

嵯峨野を更に下る。


寂庵
今をときめく瀬戸内寂聴さんが住んでおられ、訪れる人も多いらしい。
丁度、客を連れて来た運ちゃんが説明している声が耳に入った、
「これが先生が一番お好きな紫式部です」
その紫式部、萩、が門前にさらりと植え込んである。




閉ざされている門の隙間を覗く。


如何にも個人のお宅を覗き込む感じがして後ろめたい。
お人柄が偲ばれるお庭だ。
また、タクシーが来た。
一応の観光コースになってるらしい。
週に一度の写経の会、お説教の会の案内があった。


普通の家の軒先や土産物屋を無遠慮に覗きながら嵯峨野を歩く。
この気分が何ともいえないのだ。





妓王寺







嵯峨野に来る度に必ず訪れるところだ。
相変わらず、青々と澄んで輝いている苔。
マンジュシャゲの一本が侘びしさをつのる。



面白い物を見つけた。
一両から十両百両千両万両が並んでいる。
千両万両はよく見聞きしているが・・・



吉野窓(円窓)の前に座り込む。


平家物語に、
祇王21歳、妹の祇女19歳、母刀自45歳で髪を下ろした、とある。
仏御前は幾つだったのだろか。
艶かしい彼女達の色香が漂ってくる。

常盤御前、彼女と妓王妓女との時代関係はどうなっているのだろう。
まあ、義経の存在すら怪しんでいる人も居ることだし、
史実との関係を穿っても意味無いことかもしれない。


滝口寺





山深み思い入りぬる紫の戸のまことの道に我を導け

滝口入道と横笛の悲恋を思い浮かべながら、縁側に座る。
ウン十年前にもこうして縁側から庭を眺めたものだ。
妓王寺のにぎあいに比べ此処は何時も閑散としている。
それがまたこのお寺の何とも言えないところだ。

平安時代の世とは言え、
僅か19歳の公達が恋を儚み世俗を絶ったとは信じられない。
高山樗牛の滝口入道、大筋も忘れてしまったが、
結局、二人は逢瀬を楽しんだ事があったのだろうか。


滝口寺から下ると人力車が目立つ。



以前は外人が物珍しそうに乗っていたものだが、
家族連れ、若い女の子の乗り合いが多い。
一度乗ってみたいのだが、どうも、照れくさくていけない。

落柿舎


紫式部、白式部ガ冴えてる。
俳句に熱中していた頃、此処を訪れて感激したのが思い起こされる。
最近、俳句熱も何処かへ霧散してしまったガ、
悔しいから一句、箱に入れて来た。



行き行きて嵯峨に紫式部かな

秋の花々がばら撒かれたように辺りに咲き乱れる。
奥の方では句会の真っ最中だ。

柿ぬしや木梢は近き嵐山  去来

去来と言う人は仲々の人物だったらしい。


二尊院の前の茶屋に腰を下ろす。
これも嵯峨野歩きの常識になった。
二尊院の紅葉のは時期が早すぎる、茶屋から門前を眺めるのがよろしい。
今回も素通りだ。


常寂光院
此処は山門の辺りが好きだ。


紅葉にはまだ早いのに人が多い。



紅葉の季節は人で咽返るほどだ。








落柿舎の前の畑は何年前から変わっていない。
特別な配慮がなされているのだろう。




竹林を抜けるのも嵯峨野歩きには欠かせない。
が、 人影がゾロゾロと絶えない、私もその人影の一人。
一団体さんをやり過ごして耳を澄ますと、
竹林の奥から幽かに竹の触れ合う音、枝葉の揺れる音が漂ってくる。
光源氏の六条御息所を訪ねるくだりの風情が竹林の音に残っている。



野宮神社に近づくとジャズが流れてくる。
生演奏のようだ、奉納演奏なのだろう。
竹林で聞くジャズ、そう不自然でもない。

名物の鳥居は相変わらず黒く光っている。




渡月橋、
嵐山の表通りに出て渡月橋まで歩く。
見たことのある店が多い、みな頑張っている、健在のようだ。
蕎麦を啜りながら、闊歩する若者達を眺めていると、
せせらぎ程の音を立てて通り過ぎた青春が偲ばれてならない。


続く

京都記1祇園、京都記2嵯峨野1、京都記3哲学の道
京都記4鞍馬・貴船京都記5:西本願寺から嵯峨野2、祇園2





熟年の一人旅(日本編)



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