出羽三山記

鬼の会(正確には鬼の居ない間に楽しむ会)で旅に出た。
メンバーはT、I、TT、M、K、と私の6人。

上越新幹線で新潟、
新潟から鶴岡への車窓、左に日本海、
大きな島が見える。
「あれは佐渡ヶ島?」
新潟生まれのMさんの返事は浮かぬ顔だ、
「多分」
島は左窓に広がる日本海の大半を占めている。
皆、「多分」に納得。
(後日談:何と無く腑に落ちない顔をしていたMさんから報告があった。
あれは佐渡では無く粟島とのことだ。)

鶴岡は羽黒山の麓の町、
とは知っていたが初めてだ。
駅前でレンタカー、6人乗りワゴン、
運転手はIさん、ナビゲーターは珍しく此処まで酒気のない私、

近頃のカーナビは凄い、目的地をセットすると、
全く寸部の狂いが無く、音声付でガイドしてくれる。
ナビゲーターは唖然とするだけだ。


まず、注連寺、創設は空海。



木造の建物、柱の彫刻に風雅を覚える。

 

 

湯殿山は女人禁制、
特に女人の為に、祈祷を行い、お注連が出来るようにしたとか。



高徳の僧「鉄門海上人」の即身仏は霊気を誘う。
即身仏は、自然ミイラや人工ミイラとは異なり、
自ずからの意志によって即身仏となる入定ミイラをさす。
木食行(穀物を一切口にしない修行)を千日以上続けた後、
土中に造られた石室に入り、念仏を唱えながら死を待つのだ。
凄まじい、我々俗人には考えられない事だ。
俗俗が自慢の一同、少なからず俗気を意識する。

 

   

境内の桜の老樹は時期を違えて二色の花をつけるのだそうだ。
森敦は、
此処で過ごした一冬の体験、注連寺とその周辺を題材に「月山」を著した。


直ぐ近くの大日坊、
注連寺に比べ俗っぽい。
折角の真如海上人の即身仏も観光材料に化している。
周囲の花々は俗を知らない。



春日の局が竹千代に徳川家三代将軍たれと極秘で願を掛けたのがこのお寺だそうだ。
幾つかの寺宝が並んでいるが、
波分不動明王と言うのが目に付いた。
  
 

空海が唐へと留学する際に不動明王がこの姿で現われ暴風雨から救ったといわれる。
海上安全大漁の神として、古来、厚い崇拝を集めている。

情緒溢れる仁王門、しかし、無粋な周囲の照明設備などがぶち壊す。
運慶作と伝えられる仁王像は、流石、立派な風格を備えている。



 


湯殿山宿坊、
Tさんの甥御さんが脱サラして、神官となり此処に奉職している。
甥御さんが笑顔で出迎える。
空気が爽やかだ。



 

朱の大鳥居が青空に向かい聳え立つ。


(Kさん撮影)

甥御さんの計らいでお神酒をたっぷり頂く。

 

湯殿山お神酒で払ふ暑気払い

飲み疲れて闇の中に出る。
星に詳しいTTさんが語り出す。
「あれが火星、北極星、あれが○○座...」
一同が空を見上げる。
誰かが叫ぶ、
「おー、天の川だ」
始めは大きな星しか見えなかったが目が慣れると、
小さな星が輝き出す。
まさか、天の川が...
「やー、ホントだ、天の川だ」
確かに天の川が佐渡の方向に向かって流れている。

「さあ、一句」
が仲々出てこない。

銀漢や聞かぬ語らぬ湯殿山


翌朝、湯殿山神社本宮。
「語るなかれ」「聞くなかれ」と言われる修験道の霊地だ。
出羽三山の奥宮とされる此処は、写真撮影禁止、
参拝は土足厳禁、靴を脱いで裸足になる、厳しい。
社殿は無い、御神体は茶褐色の巨大な岩、その巨岩の真上から温泉の湧き出る。
素足の足裏に温泉が心地よい。
自然崇拝の原形だ。
五穀豊穣・家内安全の守り神として信者が絶えない。

 語られぬ湯殿に濡らす袂かな  芭蕉

芭蕉が月山より湯殿山へ下りた時に詠んだという。

涼しさや湯殿山なる御神体


羽黒山。
案内書に、
「開山は約1,400年前、第32代崇峻天皇の皇子である峰子皇子が三本足の霊烏に導かれ、
羽黒山に登拝し、羽黒権現を獲得、山頂に祠を創建したのが始まりとされている。
皇子はさらに月山権現と湯殿山権現を感得し、三山の開祖となった。
以後、羽黒派古修験道として全国に広がったのである。」
とある。
子供の頃から、力士羽黒山とともに天狗の羽黒山、として親しんできた。

何はともあれ、五重塔を目指す。
山門を潜と樹齢300年の杉木立、

 

鄙びた石段を降りて登ると鬱蒼と茂る杉林の中に五重塔が現れる。
周囲の杉の木の方が五重塔よりも背が高いのには驚かされる。







 

 

 有難や雪をかほらす南谷   芭蕉

はこの辺りを詠んだ。

羽黒山三神合祭殿。
出羽三山の内、月山、湯殿山は冬季は豪雪の為参拝が困難だった。
その為に、比較的低山の羽黒山に、
三山の祭神を合祀した三神合祭殿が出来たと言う。
大きな大きな本殿、けばけばし過ぎる。



中庭にでんと居座る萱葺きの切り妻造りの鐘楼、



少し離れた蜂子神社の方が趣がある。





境内には古今の歌碑・句碑が立ち並ぶ。

 涼しさやほのみか月の羽黒山   芭蕉
 

月山。
やっと車がすれ違える山道を登り切ると月山8合目、



弥陀ヶ原のお花畑が延々と広がる。
ニッコウキスゲの黄金色が眩しいばかりだ。













 

幾種類もの高山植物が短い夏を貪る様に咲き誇る。
叫んでいるようでもある。















花の知識に乏しいのが悲しい。
突然、霧に覆われる。



と、また突然霧が晴れ鶴岡の町が山懐の向こうに広がり、
鳥海山も穏やかな稜線を現す。



夏雲や羽黒月山湯殿山

ベンチに腰を下ろすと、足元をオチョボ?が駆け巡る。


(I さん撮影)


「旨い蕎麦が食いたい」
と誰かが言い出した。
やっと尋ね当てた鶴岡郊外、羽前大山の蕎麦屋、寝覚屋半兵衛、
名前からして旨そうだが、実物もいける。



蕎麦と麦切りが半々ずつ、歯触りと喉越しの良さは半端ではない。
「蕎麦の香りがしない」
との苦情も出た。

羽前大山の酒蔵を訪ねる。
米どころとして名高い庄内平野、何代も続く酒蔵が多いのが頷ける。
どのような関係かは判らないが、代々の総理大臣の書が並んでいる。
それぞれの個性が字に浮かび上がっていて面白い。
大平正芳の字が一番気に入った。


Kさんがインターネットで調べた湯田川温泉甚内旅館に落ち着く。
湯田川温泉の甚内旅館を選んだ理由は、
ホームページに載っていた女将さんの笑顔だ。
もう一つは1300年前の開湯という古さだ。

期待に背かない笑顔が温かく迎え入れる。
ビールで喉を潤してから湯に浸かる。
湯量たっぷり、温度も手頃、透明極まりない綺麗な湯だ。

浴衣に着替え下駄を履いて街をぶらつく。
直ぐ近くの古めかしい由豆佐売神社、いかにも厳めしい名前だ。
大銀杏が古さを語る。


(Kさん撮影)

此処は「たそがれ清兵衛」のロケ地になった。
原作者の藤沢周平はこの近くの出身で、
甚内旅館が彼の定宿だったらしい。

宿に戻るとお膳が並んでいる。
昔風の一人一人のお膳に並べ切れないほどの料理、
と見ていると、次々に後が出て来る。
とても食べ切れない、一口ずつ箸を付ける。
どれもこれもが美味しい、心が篭っている。

やがて和服に着替えた女将が艶やかに登場、
「ご挨拶に...」
と膝をたたむ。



^
(上下二枚 Tさん撮影)

湯田川の透ける湯浴びて夏料理
うすものの女将の白きうなじかな
食いたきは羽前湯田川夏料理

此処の料理は、全てが、ご主人と女将の手作りなのだ。
温泉の由来、効能、此処の名物料理、名産等を、
笑顔を絶やさず、おっとりと、お話して下さる。
この辺りでは梅と桜が同じ時期に咲くのだそうだ。
この辺りで採れる筍はあく抜きが要らない、
柔らかくて甘みが有って、一度食べたら忘れられないそうだ。
5月の中旬のほんの短期間、此処でしか食べられない絶品らしい。
後で知ったが、湯田川かっぽ酒、と言うのを飲みそこなった。

部屋に戻ってから、
湯殿山で頂いたお神酒「湯殿山」を囲んで、また、句会もどきが始まる。


翌朝、
一品一品、粋な器の朝食、どれもこれも一味違う。
床の間のお宝物も値打ち物らしい。

 

溢れんばかりの笑みを湛えた女将が玄関の外まで送りに出る。
何時か筍の季節に再来したいものだ。


致道館博物館。
庄内藩酒井家の居城、鶴ヶ岡城跡に酒井家及び酒井地方ゆかりの物品が集められ、
博物館となっている。
隠居所と庭園、旧役所、民家、民具、等が丁寧に保存されている。





 



酒井家は薩摩藩、特に西郷隆盛との関係が深かった資料が多い。


出羽三山の旅での昼食は毎回蕎麦だ。
山形の蕎麦は美味しい。
庄内おぼこ、実に当たりが柔らかい。
おっとりとした山形弁、無垢そのものだ。
この後、忘れた財布を駅まで駆け付けてくれた。
額一杯に汗が滴り落ちていた。

 

麦切や庄内おぼこおちょぼぐち


酒田駅前の案内板のスケールで計ると、宿まで500m内外となる。
「歩こう」
と炎天下を歩き出す。
500mの三倍も歩いて、これも古い宿、菊水ホテル。
酒田の見所が歩いて行ける距離に転がっている。

一服して、早速、
遠いい処からと、土門拳記念館。
洒落た記念館だ、それもその筈、権威ある建築関係の賞に輝いている建造物だ。





「古寺巡礼」
若い頃、これを見て写真心が目覚めたものだ。
「室生寺」
これを見て、わざわざ、室生寺まで行ったこともある。
土門拳の年表を見ると、若いときに随分と苦労している。
そんな苦労が、後のあの執念に結びついているのだろう。


時間が無くなった。
急ぎ足で本間家旧本邸。



3000町歩、3000人の小作人を抱える日本一の大地主の家、
想像していたものよりも質素極まりない。
良く見ると、目立たないところにお金が掛かっているようでもある。
あの時代、十代もの間、家を傾けることなく存続させるのには、
さぞかし、代々の当主の努力は並大抵な事では無かったであろう。


帰りがけに山居倉庫、
本間家の米蔵が何層にも立ち並ぶ。
観光客も家路を急ぐ夕暮れ時、
さっきまでの喧騒が嘘のように人並みが途絶える。
銀杏並木に爽やかな風が通り抜ける。
近くに住む子供達だろう、銀杏の大木に見え隠れする。



庭石に腰を下ろす。
ふっと、米俵を担いだ人足達が慌しく行き交い、
荷車がガラガラと通り過ぎる。
そんな情景が浮かんで来る。

 

緑陰に風集まりし童かな


夕方、心づくしの料理と地酒「ジョウキゲン」。
「上機嫌」かと思ったら「上喜元」だった。



酒田の街中に残る唯一の酒蔵の地酒だそうだ。

浴衣を着て花火見物、
それ程大掛かりではないが最上川に打ち上げられる花火は、
酒田の町を背景に絵になる。


(Kさん撮影)

来し方を指折り数え遠花火


最上川下り。
ポンポンと威勢の良い山形弁が飛び出す庄内おぼこ。



最上川舟歌を聴きながらのゆったりした川下りは至福ものだ。

 五月雨を集めてはやし最上川   芭蕉

の急流のイメージは無い。
案内ガールが、しきりに
「怖い川」
と言っていたから見掛けよりも速い流れなのだろう。
天竜川に比べ、川幅も広く水量も遥かに多い。



天竜川では竿と櫂を使った川下りだったが、
此処はエンジン付だ、そんな関係も有るのかもしれない。



(プロ撮影)

「義経主従」はこの川を上り、「芭蕉」「おしん」はこの川を下った。

山騒ぐ真っ只中を最上川
水涼し最上川にて旅果つる

両側に神代杉がニョキニョキと森から顔を出す。
運が良いと熊、鹿、猿などを見掛ける事が有るらしい。
10キロ程の間に橋は無い。

 

 

川の北側は道路も無い、時々小さな部落があるが、
不便さに耐えかねて村を離れる人が多く、
ある部落では住民が唯の一人だそうだ。
交通手段は船しかない。


新庄で蕎麦屋を探す。
駅前の案内板の「めん処○○」を尋ねて炎天を歩く。
探し当てると「んめ処○○」とある、しかも休店。
駅前に戻って蕎麦屋、これが板蕎麦、美味しい。

「久持良餅」を買う。
この旅の始めからTTさんが念仏のように唱えていた「久持良餅」だ。
「久持良餅」にもいろいろ有るらしい、TTさんは。
「本店へ行ってみる」
と荷物を転がして街の中へ消えて行った。

私は、本屋を探す。
評判の「たそがれ清兵衛」、映画も本も読んでない。
無性に読みたくなったのだ。
甚内の女将が、
「藤沢周平の作品に「ごますり甚内」ってのもあるんですよ。」
と聞いていたからだ。
本屋でやっと探した単庫本、
その中に、「たそがれ清兵衛」も「ごますり甚内」も載っている。
新幹線の中で熟読している内に旅は終る。
藤沢周平ってのを知っているようで知って居なかった。
庄内を歩いて初めて知る庄内の風土、
これを知って初めて深まる藤沢周平の世界だ。

そう言えば、森敦、「月山」もまだ読んでない。
明日、古本屋で探してみよう。

気を置けないが、個性バラバラ、言いたい事を言い合う、
共通点はパソコン、それも初心者、それと写真、
そんな繋がりでの6人の旅、
こんな繋がりを造ってくれた神に感謝だ。




熟年の一人旅(日本編)



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