法金剛院

京都駅に荷物を預け其の足でJR花園駅、 駅を降りるも間もなく喧騒の丸太通りに面してその法金剛寺がある。
かの待賢門院が出家後の晩年を過ごした所だ。
最盛期の法金剛院には九体阿弥陀堂、丈六阿弥陀堂、 待賢門院の御所などが立ち並んでいたというが、
平安以降の数々の天災人災、応神の乱、なども経て、 明治に至り山陰線の開通、
そして最近の丸太町通りの拡幅など往時の面影とは大分違ってしまったのだろう。





それでも、けたたましい丸太通りの喧噪から一歩入ると静寂が訪れる。
此のお寺の名物の蓮の時期にはまだ早い。 尋ね人は少ない。
私以外には池の向こうに佇んでいる一人だけだ。



待賢門院と聞いただけで身が轟く。











青鷺がいる、心無しか待賢門院のイメージに重なる。
待賢門院が住んで居られた頃の法金剛院は、
待賢門院の美貌と風雅な庭園を求めて多くの風流人が集まり文化サロンの如きで、
西行も其の一人であったと言う。
西行は待賢門院を慕い、それが西行の出家の原因とも言われている。
そんな面影を偲ぶ。



待賢門院璋子の周囲のは歌の名手が多かった。
璋子に仕えて出家の供をした待賢門院堀河局、其の妹の上西門院兵衛などだ。
百人一首の、
なかゝらむ心もしらす黒髪の 乱てけさは物をこそおもへ
これは待賢門院堀河局の歌だ。



しかし、このような優れた歌人達に囲まれた環境に有ったのにも拘らず、
待賢門院の歌は残っていない。
日記すらも。
それが不思議で成らない。
眞筆かも知れないと伝わっているのはこの書だが、



確定はされていない様だ。
待賢門院没後も此処に残った待賢門院堀河局、上西門院兵衛姉妹と西行との交流の記録は多く残っている。





蓮の花の時期になるとこの池は蓮の葉で水面が見えなくなる程と言う。
この池は苑池と呼ばれ極楽浄土を模して待賢門院が造園させたと言われている。
庭園の北側に、近年の発掘で復元された「青女の滝」がる、これは日本最古の人造の滝であり平安時代の遺構として貴重とされる。






















礼堂の奥側に仏殿がある。
本尊の「阿弥陀如来坐像」、「十一面観世音菩薩座像」、「厨子」などは 重要文化財に指定されている。









門を出て法金剛院の左側を右へ曲がりながらものの10分程登って行くと待賢門院の御陵がある。







この辺りは仁和寺や竜安寺に近い。














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