長門記8 

ー時雨の津和野ー

一路、津和野を目指す。
やがて、谷底に鰻のようにくねった一本の川を挟み細く連なった街が現れた。
意外な津和野だった。
山間の街とは想像出来たが、もっとなだらかな盆地、そんな先入観が見事に外れた。
険しい険しい山奥の津和野だった。

津和野の名は、今でも昔ながらの街並の残る城下町、と早くから知っている。
古い街並をただぶらぶらと歩くのが好きな私が生きているうちに必ず訪れてみたい街の一つだった。

大きな鳥居を潜って谷底へ下る、巾が500mにも達しない街の真ん中に、川とメイン道路が交差する。
民宿に荷物を置くと直ぐに表に出た。
津和野の路地は時雨に濡れている。
メイン通りで一番巾を取っているのは何軒かの酒蔵、その一軒に入る。
キビキビと相手の眼を見て応対する茶髪の娘さんの言葉尻に素朴さがこぼれる。



長門へ来て気が付いたが、お店の人、宿屋の人、観光地の切符切りのおばさん、
道を尋ねたお爺さん、みんな、所謂、ぶっきらぼうな対応に出会ったことがない。
人懐っこく、笑顔を見せ、言葉遣いもこちらが恐縮するほど穏やか、頗る丁寧だ。
同行のTuさんなんどは、萩の茶房の女性の品の良い言葉遣いの心地よさに、
暫くその場を動こうとしなかった。
土地柄だろうか。

売場の奥に土間に大小の酒樽が並び、柱の一本一本に年期が入っている。
「この家は何時頃建てられたの」
「200年前です、寛政12年です」
年号まではっきり答える。
美味しい地酒を尋ねる、
「これが甘口の○○、これが辛口の△△....」
トクトクと試飲の杯に注いでくれた。

二、三軒の酒蔵で試飲を味合い、それぞれの店で今晩の寝酒用に一本ずつ求める。
空きっ腹の地酒でお酒に余り強くないNさんKさんは既に顔面から湯気を吹き出している。
そぼ降る時雨に濡れてぶらぶらと紙布織や焼物の店を冷やかす。
きめの細かい造りの建物は酒蔵、土産屋、菓子屋、
新旧入り交り思ったより荒っぽい表通りを行って、横道に入る。
がらんとした細い通りに朽ち掛けた土塀が続く。
小さなお宮の真っ赤な帽子を被った石地蔵の顔は目鼻が区別が付かないほどに風化し、
傍らの小さな骨董屋の汚れたガラスの向こうには
何年も置かれたままでいるらしい壷がしょんぼりしている。
この何百米かの散策で津和野は十分だ。


翌日も時雨の津和野、
先ず訪れたのは古刹永明寺、吉見氏、坂崎氏、亀井氏歴代の菩提寺として560年の重みがある。






森鴎外の墓を見逃すところだった。



少年時代に津和野を出たきり一度も故郷の地を踏まなかった鴎外がこの地への埋葬を遺言した。
故郷とはそんなものだ。

品川で生まれ、川崎の小学校に上がり、
中学高校を疎開先で過ごした私にはどれも故郷の感慨が無い。
物心が付いた頃に育った川崎は辺りは焼け野原になり私の想い出になるものは何一つ残っていない。
鴎外と比較するのはおこがましいが、それに比べると鴎外の故郷は、
少なくも彼の生涯を終える時期にも故郷がすっかりそのまま残っていた。

坂崎出羽守の墓は、いと悲しい。
大阪城落城時の千姫との逸話にはその信憑性がとかく語られているが、
いずれにしても家康の勘気を買い、たったの一代で津和城主を追われた。
数々の戦功を立てた出羽守、さぞかし無念であったであろう、どんな男だったのだろうか。
墓道の石畳に散る楓が真紅だ。 敷き詰める紅葉の中で暫し感傷に浸る。




鴎外の旧居門前で、
「あれーあれー...」
と肩を叩かれる。
中国雲南の昆明に短期留学した時の同級生のNiさんだ。
こんな事が有るから人間辞められないし、悪い事は出来ない。
HPに散々悪口を書いたので跋が悪い(昆明留学記)、
彼は私のHPを見てないらしい。
相変わらず濃いセピア色のサングラスを掛けている。
「一年後に、また、昆明へ行きます」
「わ、た、し、も、その頃に...」
長期留学予定だった彼は痛風とかで留学途上で日本へ引き上げた、
と他の学友からのメールを受けていたが、
宿屋の唐傘を真っ直ぐ挿した後ろ姿に痛風の様子はない。

鴎外旧家を縦に斜めに観る。
萩でもそうだったが歴史上の人物の旧居が何処の観光地にでも有る。
見る前までは期待に膨らんでいるのだが観てしまうと詰まらないものだ。
一目観れば十分だ。
大きさがどうの、間取りがどうの、トイレがどうの、観てもどうって事はない。
だが一目は観たいのだ、野次馬根性のようなもの、
昨今の有名人の私生活を報じるTV番組への興味のようなものかも判らない。


森鴎外記念館。
鴎外の出生から亡くなるまでの詳細な文物が所狭しと陳列して有る。
ここの休憩所はゆったり出来る、
表の時雨を眺めながら煙草を煙らせていると時を忘れる。
ひときわ眼を引くのは鴎外の書、
青墨でやや細めの書は医者の真摯さと文学者の叙情を兼ね揃えた趣がある。
ドイツ娘との恋愛沙汰を追いかける古い新聞記事、
人間の興味は昔も今も変わらない。





橋を渡り5分も歩くと西周の旧居、大凡鴎外旧居と変わらない。
鴎外と周、どちらが日本の近代化への貢献、
影響が大きかったのだろう、などと無責任な考えを巡らす。
時代と立場が微妙に違う二人、
「比較する意味も無いな」
そんな独り言を吐く傍を大根をぶら提げた老人が通る。
少し威厳を保つ老人の顔がこころなしか周に似ている。





鴎外旧居から西へ2、3丁行くと、亀井温故館、
津和野へ来るまで坂崎出羽守の後の津和野城主が亀井家と言うのを知らなかった。
「亀井家は変わっている」のだうだ。
「どのように変わっているの?」かというと、
「幕末のガタガタの時、幕府軍が長州を目指す時、どうぞお通り下さいと道を開けた。
長州軍が京を目指す時、この時も、どうぞと道を開けたんだ」
要するに中立を保ったのだ。
当時既に西周が識者として幕府に対し少なからず影響力を持っていたことにも因るのだろうが、
この辺りに、周、鴎外が世に出た素地が有ったような気がする。





元伯爵家に伝わる品々、
とりわけ、ヨーロッパの染織、デザインのコレクションの豊富さには驚く。
染織、壁紙、インテリアデザインを志す人には必見だ。
明治初期の藩主はドイツに留学し美学、美術史を学んだそうだ。
当時のカメラのコレクションにも垂涎の思いだ。

庭園は前方の山頂に石垣の残る萩城を借景にしている。
あんな山頂に城が有り武家屋敷は谷底、侍達の毎日のお勤めもそうだが、
城での生活はさぞかし大変だっただろう。


津和野市街から5kmも山間に入ると、しっとりとした風趣が漂う庭園がある、
堀庭園と言う。







こんな山奥に、と思われるほどの洒落た庭園、豪奢な数寄屋風の建物、
300年も続いた名家と聞いて納得が行く。
近くの銅山年寄役を代々勤めてきたのだ。
日本海側の益田まで他人の土地を踏まずに行けたと言うのだから、
日本にしては相当な財力を持って居たのだろう。
滝を落とし、ふんだんに裏山を借景にした庭園は心憎い程の風情が有る。









帰りの車で上りついた稲荷神社、日本4大稲荷の一つとか、仰々しい朱とコンクリート、
「我々が子供の頃、年に一度のお祭りに此所へ来るのが楽しみだった。
昔は車も入れなくて街から幾つも幾つも鳥居を潜って登ってきたんだ。
昔は趣があったなー」
折角の津和野が泣く俗の俗だ。


養老館、
亀井藩の藩校跡、亀井藩の人材育成への傾注を覗わせる威容だ。
ここから周や鴎外他数多の俊才達が世に踊り出た。 
この藩を支えた財力は何だったのだろう、付近には広広とした農地は見当たらないし、



是と言った産業が有ったようにも思えない。 
名産の和紙も高が知れてるであろうし、林業かな?
養老館の塀に沿う小堀に2尺もあろう大鯉が悠然と泳いでいる。 水は澄み切っている。
夕暮れの迫る津和野を未練たらしく歩く。

続く






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