長門記7 山頭火 周防国分寺 天満宮 毛利氏庭園 阿弥陀寺


Ta、Kとの三人で鈍行の席で足をいっぱいに伸ばし防府へ、
宿で一休みして真っ先に山頭火の匂いを嗅ぎに出る。

私は俳句をほんの少し嗜むが自由律俳句は詠まない、
詠めないといった方が適当化も判らない。
ただ俳句に手を染め出した頃、

うしろすがたのしぐれてゆくか     山頭火
分け入っても分け入っても青い山  山頭火
うつむいて石ころばかり        山頭火

こんな句に出会って脳天をガツンと殴られたような衝撃を受けたことがある。
どんな人間がどんな心境でこんな句を創り出すのか、憧れの様な興味を抱いたものだ。

小さなお寺の片隅で山頭火は無造作に眠っている。



境内の幾つかの句碑が真新しい。

見るのはいつもふるさとの夢     山頭火

防府の大地主に生まれ、父と二代にわたってのんだくれでぐうたらで、家業を潰し、
乞食同然の放浪で一生を終えた山頭火、
当時の俳句界を席捲した自由律俳句が生んだ異才、
その後下火になった自由律俳句で名を残す放哉と共に
異色俳人の二人が井泉水門下なのも偶然だろうか。
もっとも、
山頭火が日本の山頭火として脚光を浴びたのは死後3、40年たってからだ。
放哉は晩年ひたすら坐り続け山頭火は歩き続けた。

春山のうしろから煙が出だした     放哉
足のうらあらえば白くなる         放哉

山頭火は自由を求めたのだろうか、孤独を求めたのであろうか、
或いは、単なる実社会からの落伍者なのだろうか、
俳人としてよりも人間山頭火としてその生き様が人々の共感を呼びのだろう。
少年のような繊細な精神が魅力なのだ。

少し歩くと山頭火の生誕地、
軒がぶつかりそうな細い路地から少年の山頭火が転がり出てきそうだ。

生まれた家はあとかたもないほうたる   山頭火

家の辺りに舞い戻った彼は嘆く。
芭蕉、蕪村、一茶との決定的な違いは、山頭火は物乞いをして歩いた事だ。
それにしては、俗から遠くかけ離れた純な句が多いのに驚かされる。
これ以上俗なものはない物乞い、その物乞いが創り出し生み出す純粋、
人間は不可思議、では済まされない妙が有る。




天満宮の門前町をかなり歩いたが食べ物屋が見つからない。
門前町を尽きた辺りで中年のおばさんに尋ねる。
こんな時はいかにも土地人間風情のおばさんに尋ねるのに超した事はない。
「この辺で安くて美味しい店無い?」
おばさんが通りまで出てきて格好の店を教えてくれた。

熱燗が殊の外美味しい、大衆居酒屋だが、
つまみも長門の味がする数々だ。

近場に有る周防国分寺に向かう。









堂々たる仁王門、両脇に怒りたつ仁王はミイラの如く朽ちているが眼光が鋭い。
壮大な金堂は目下大修理中で全体がテントで覆い被されている、
テントの隙間からコンクリートが覗く。
ご立派なコンクリート建ての本堂が蘇るらしいが、古い金堂を観たかった。
裏の別棟に本来本堂に安置されている仏像が仮住まいで拝顔可能の立て札、
仏像だけは見れるらしい。

大小50余りの仏像に目を見張る、
中でも、月光、日光の両菩薩は、これが国の重要文化財と聞くまでもなく、辺りを払う。
奈良時代の国分寺が当時の姿を残しているのは全国でも珍しいのだそうだ。
代々の天皇、大内氏、毛利氏の手厚い保護で何回かの戦災、災害をくぐり抜けてきたのだ。


中世、三田尻港から山口への塩の道として栄えた街道を取って返す。
軒の低い家並みが往時を偲ばせる。

天満宮の石段を登り朱の門を潜ると、
荒祭りとして知られている裸坊祭りの後片付けが進んでいる。
一日早く着けば...文字通り後の祭りだ。


毛利氏庭園、
明治の元勲達の後押しで明治大正の建築造園技術の粋を散りばめた壮大な庭園邸宅、



 



防府市街とその向こうに広がる瀬戸内海を借景に朱、茶、紅..様々な色彩の紅葉が見事だ。



「あれだけは観て置いた方が良い」
とNさんが推奨する雪舟の「四季山水図」、今日は月曜日で博物館は休館だ。
たまにはそんなことも有る。


毛利庭園から東北の方向へ10分も走った阿弥陀寺、此所の雰囲気は抜群だ。




                         

茅葺きの山門、古い石段、参道に覆い被さる紅葉、意外なところで意外な風景にぶつかる、
これが旅の醍醐味だ。
この寺には東大寺別院の添え書きがある。
奈良の東大寺が平重衡の兵火で焼失した後の大仏殿の再建を託された重信上人が
この地を拠点として再建用の資材を供給した、との記述がある。


「月の桂の庭」と言う名に惑わされて探し当てた「枯山水の石庭」は門が固く閉ざされている。
防府の案内地図のどれにでも載っているのに失礼極まりない。 「桂」の標札が憎々しい。








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