長門記5 楊貴妃ロマンの里

千畳敷。
西伊豆の海岸、宮崎の青島海岸に千畳敷と言う岩礁があるが、
千畳敷と聞いてそんな岩礁をイメージしていた。
長門の千畳敷は様相が異なる。
日本海からそそり立つ小高い山の中腹を輪切りに切り取った台地になっていて、
眼下には長門の島々が碁石を散りばめたように並んでいる、
スケールの大きな枯れ山水の如きだ。




さて、いよいよ楊貴妃の墓が近い。
その昔、Nさんが一杯入ると、
「俺の生まれた近くに楊貴妃の墓が有るんだ」
とよく聞かされたものだ。

余談だが、一昨年、西安の郊外に有る楊貴妃の墓を訪れた。
その直前に訪れたフフホトの王昭君の墓に比べ、規模もそうだが、
王昭君は周辺の環境からして如何にも手厚く葬られた感を強く受けたのに対し、
楊貴妃の墓は単なる墓、
それも後世になって観光目当てに急ぎ整えた感が拭えなかった。
中国の四大美人と称される二人、 楊貴妃、王昭君の歴史上の功罪が全てを語るが、
王昭君は中国人に頗る愛され、楊貴妃は極めて評判が悪い。
私の中国人の友人は、
「楊貴妃は江青と同じ類」
と言い切る。

そんな楊貴妃だが、美人に弱い私にとって、
美人の代名詞ともなるその美しさ、玄宗の寵愛を欲しい侭に、
一族郎党と共に権力の極みを尽くし、最後は首を刎ねられると言う死に方、
同情とも興味ともつかない何か居たたまれない愛おしさの様なものが私の何処を擽って止まないのだ。
その楊貴妃の墓が日本に有る聞いて、一度この目で眺めてみたい、これが兼ねてからの念願だった。




(辻氏撮影)

その楊貴妃の墓が、今、目の前に有る。
油谷湾を見下ろす高台の小さなお寺、二尊院の片隅のこじんまりとした五輪塔の下に、
もしかしたら、楊貴妃が眠っているのだ。









住職が語る。
「はっきり言って、楊貴妃の墓だと実証するものは何も有りません。
言伝えでは、
危うく難を逃れた楊貴妃が近くの唐渡口と言う所に流れ着いたが、間もなく世を去った。
哀れんだ里人が手厚く葬った。
その話を聞き及んだ玄宗は高官を遣わし、釈迦如来と阿弥陀如来を以って弔ったが、
その二尊は誤って京都の清涼寺に届けられてしまった。
その後、もう一対を造って収められたのがこの二尊です」

傍らに安置されている二尊は国の重要文化財に指定されている。

住職の話はつづく、
「この二尊は多くの専門家達によって興味深く鑑定されています。
彼等が一応に声を揃えて言うのは、何故この様な仏像がこの様に鄙びた所に有るか?です。
と言うのは、この仏像は、地方の豪族程度ではとても奉納出来るような代物ではありません。
皇族もしくは極めて高位の貴族にしか扱えない代物です。
この二尊は鎌倉時代前期の作です。



楊貴妃の時代とは三百年のずれが有ります。
これも、この二尊と楊貴妃の関係で判らないところです」

話しながら住職は何度も首を傾げる。
そう言われてみると、辺りを払う二尊の輝き、全体のバランス、只物ではないようだ。
仏像の知識は何も無い私だが、京都奈良で見る仏像と遜色ないような気がしてきた、
兎も角も国の重要文化財だ。





住職の話にも出た地名、唐渡口、が示すように元来この辺りは対馬海流と冬の北西風に導かれて
多くの異国船が辿り着く事で名が知られている。
Tさんが言うには、
「ある時期、多少オーバーに言って、中国、韓国からの密航者は毎日だった」
との事だ。
「俺の血の殆どは多分中国か韓国のものだよ」
生っ粋の長門っ子のNさんは豪快に笑う。
境内に聳え立つ楊貴妃の白亜像は西安で見た像と良く似ている筈だ、
同じ中国の彫刻家の作だそうだ。
華清池にも同じ物が有ったような気がする。


本州の最西北端に有る川尻岬、



その途中の棚田が何とも絶景だ。
棚田に水が一杯に張られる季節、通の写真好きが訪れる穴場らしい。


(北沢氏撮影)





沖に漁火が灯り始める夕焼けの時刻が絶好なのだ。
今は田に雑草が生い茂っては居るものの棚田の雰囲気を彷彿させる。
「この辺りも、老人ばかりになってしもうて、手の掛かる棚田は大変なんだよ。
只でもよいから田畑家屋敷を提供するという人さえいるんだ。 
棚田学会なるものが出来て、棚田保存が叫ばれ始めているんだよ」
Nさんの嘆きは深刻だ。








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