大島・波浮港


昭和xx年安房高校xx組卒業の7人が、
それぞれ東京、久里浜、館山、熱海から大島元町港に集まって来た。
高速ジェット船で、東京から2時間、久里浜から1時間、館山から50分、熱海からは45分、
私は熱海から、あっという間に着いてしまう。






元町港で一日フリー乗車バス券2000円を購入し、直ぐに三原山頂口行きバスに乗り込む。
今回は宿だけ決めて、後はなるべく自由に行動しようと言う腹つもりだ。
大島へ来たのだから途中のリス園とか椿園とかで椿をゆっくり見たい、
そんな連中が多いだろうと予測したが全員が終点の三原山頂口まで降りなかった。
バスを降りると山裾に大草原が広がる。



元気の良い三人が頂上に向って歩き出す。
二人はゆっくりと野原を歩く。
後の二人は展望台から眺めている。



幹事の特権で波浮港の方に多く時間を割いているので頂上まで往復の時間は無い。
頂上を目指した三人は草叢の中に消えて行って、やがて二人が現われた。
もう一人はどうしたかと眺めていると、
なんと、遙か向こうから駆け足で戻ってくる、日頃の鍛錬の差だ。






元町港へ引き返し、
バスの中でアシタバ入りのおにぎりを頬張りながら今度は波浮港を目指す。
バスからの風景は何処かの風景に似ている。
韓国の済州島、沖縄辺りだろうか、
低い屋根の家並み、屋根の高さよりやや低い石垣の塀、なまこ壁、背の低い潅木・・
南風を一杯に浴びる島の風物が似通っているのだろう。

我々7人が乗り込んだせいか小型バスのせいか、
車内はかなり混んでいる。
元気の良い高校生2,3人が大声で話す。
進学についての意見交換のようだ。
不思議とそれが煩くない。
大声の割りに語り口が素朴でおっとりした口調なのだ。

杖を突きながら、手摺に掴まりながら、
7,8人の老人が乗り込んで来た。
その間、バスはゆったりと時間を止めている。
島の高齢化が窺える。
つと、高校生たちが皆立ち上がった。
見ていて気持ちが良い。

1km程にわたって溶岩層が剥き出しに幾重にも重なっている。
150万年前からの噴火の跡だそうだ。



幾つかの停留所に止まる度に高校生が一人ずつ降りてゆく。
その都度、運転手が声を掛ける。
「さっきは席を譲ってくれてありがとう」
高校生達はうつむき加減にやや顔を紅く染める。
こんな光景は生まれて初めてだ。


波浮港見晴台、唸らされる風景だ。







波浮港を眺めるだけなら此処で充分だ。
此処で、
「波浮の港まで歩いて降りて波浮の情緒を味合いたい」
「大島に来たのならもっとじっくり椿を眺めなくちゃー」
の二つのグループに分かれる。

私は当然波浮グループ。
波浮港、
この名前を何時覚えたのか記憶に無いが小学高学年の頃ではないだろうか。
何か温かみがあって哀愁が篭り琴線を擽るのだ。
「波浮の港」は1923年に野口雨情が発表した詞に中山晋平が作曲した。
所謂、流行歌レコードの走りだうだ。
面白い事に野口雨情はその当時まだ波浮の港に行った事が無かったと言う。
どんな経緯でこんな詩が生まれたのだろうか。
昭和初頭、当時の文人たちがわんさと此処へ立ち寄っている。
与謝野鉄幹
野口雨情
林芙美子
幸田露伴
厳谷小波
佐藤惣之助
萩原井泉水
大町桂月
土田耕平
清崎敏郎
与謝野晶子
北原白秋
彼達はこの詩を読み歌を聞いてうらびれた小港に詩情、旅情、ロマンを感じたのではないだろうか。
数年一寸前の私が伊豆の踊り子を求めて世界(のほんの一部)を訪ね歩いた心情に似ているような気がする。
かつては遠洋漁業の中継港として大変な賑わいだったと聞く。

波浮の港を目指して歩き出す。
折角の風光明媚な場所なのだから歩道を整備すれば良いのに、
とか思いながらアスファルト道路を歩く。
と、こんな光景が出て来た。



嫌が上にも哀愁をそそる。
思えば私の居た小学校は私が離郷して直ぐ廃校になっている。
帰省の度に草叢と化したその跡地を見て感傷を覚えたものだ。

暫く行くと雰囲気のいい小道、









小道を奥まった所に「旧甚の丸旅館」、当時のまま保存されている。









霞むのは利島、新島、式根島だろう。
踊り子坂を降りる。

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此処を訪れた人達の歌碑、句碑、古い旅館、石塀、石段、椿越しの港の風景、情緒豊かだ。















石段を下り切るところの「旧港屋旅館」、
此処も当時の建物や雰囲気がそのままに保存されている。









「伊豆の踊り子」のモデルになった大島の旅芸人一座が芸を披露した様子が再現されている。




波浮港は火口の跡だ。
そこに火口湖が出来て後年の津波で海とつながった。
ものの何十mの直ぐ其処が太平洋とはとても思えない、
懐に抱かれた、すこぶる静かなのだ。







磯の鵜の鳥ゃ日暮れにゃ帰る
波浮の港にゃ夕焼け小焼け
明日の日和はヤレホンニサなぎるやら

船もせかれりゃ出船の仕度
島の娘たちゃ御神火暮らし
なじょな心で、ヤレホンニサいるのやら

島で暮らすにゃ乏しゅうてならぬ
伊豆の伊東とは郵便だより
下田港とはヤレホンニサ風だより

風は潮風、御神火おろし
島の娘たあちゃ出船の時にゃ
船のとも綱ヤレホンニサ泣いて解く

磯の鵜の鳥ゃ沖から磯へ
泣いて送らにゃ出船もにぶる
明日も日和でヤレホンニサなぎるやら

野口雨情は見たことの無い大島を詠った、と言われているが、
大島には鵜は居ない。
「なじょな」は雨情の故郷茨城のことばで大島弁ではない。
もう一つは、波浮港は東向きで夕焼けは見られない。
これらが、
雨情が大島に行ってないのにこんな詩を作ったと言われている根拠だ。
私は、
彼は人知れず波浮の港を訪ねた実感に基づいてこの歌を詠んだのだと思う。
そんな気がしてならない。

泣いて出舟を見送る島の乙女の姿は無い。
漁船の数も少なく、昔賑あった通りのお店も殆ど戸が閉まっている。



その中で幽かに翻っているアイスクリームの看板を頼りに戸を開けた店にテーブルと椅子があった。
今にも壊れそうなテーブル、いかにも安物のコーヒーカップ、
しかし、美味しいコーヒーだった。
コーヒーの旨さは産地銘柄値段では無い、雰囲気だ。
これを今更ながら痛感した味だった。

店の小母さんが、
バスの時間、バスとタクシーの損得までも事細かに、
トイレの場所も二箇所を、それぞれの長短を交えて・・・
しかも、表まで出て指差して・・。



元町役場で椿の品評会、
400、500の種類があるとの事だ。
椿酒と言うものを始めて口にしたが香りが何とも言えない。
25度、薄くすると直ぐ無くなってしまうのだそうだ。
ここで大島椿組と合流、宿まではものの5分だ。

お風呂に入って食事して部屋の戻って懇親会。
為朝の話から大歴史図鑑の紐解きが始まる。
ウン十年にわたる想い出話は尽きない。
たった3年、それも同じクラスだったのは一年か二年、
同窓とは不思議なものだ。



 








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