近江・湖西記
北国海道西近江路を真っ直ぐ北に向う。
大津から比叡山、比良山系の東側を琵琶湖西岸沿いに敦賀に至る街道である。
来迎寺。
昨日訪れた日吉大社を左手に見てほぼ真東の琵琶湖湖畔の近くに来迎寺がある。
最澄の創建と伝えられ平安時代初期に源信が念仏道場として以来、
中世を通して延暦寺の念仏道場として栄えた天台宗の名刹である。
来迎寺の山門は坂本城の城門が移築されたものである。
比叡山のほぼ真下にあって例の信長の比叡山焼き討ちの難を逃れたのは、
このお寺には森可成の墓があるが故だ。
森可成は森欄丸の父であり信長の武将として浅井・朝倉軍と戦い討ち死にした。
比叡山焼き討ちの難を逃れた為、
このお寺には数々の国宝・重要文化財の寺宝が伝わり毎年8月16日の虫干会に展覧されている。
浮御堂。
5kmほど北に進み右に折れた琵琶湖湖畔に
近江八景の一つ「堅田の落雁」として名高い浮御堂がある。
正式名は海門山満月寺であり、源信が湖上交通安全と庶民救済を願って建てたという。
鎖あけて月さしいれよ浮御堂 芭蕉
元禄4年の仲秋の名月の翌日に芭蕉が詠んだとされる。
満々と水をたくわえた湖面の向こう並ぶ伊吹山、長命寺山、近江富士、仲々の絶景だ。
近くを舟が通り過ぎる度に浮御堂の桁にひたひたと波がぶつかる、仲々の風情だ。
古来、一休、蓮如、一茶、広重、北斎等に愛された絶景、風情なのだ。
五月雨の雨だればかり浮御堂 青畝
青畝のこの句も名高い。
小野一族の里。
北国海道西近江路を更に北へ5kmも辿ると、
今回の湖西に旅の眼目である小野一族の史跡で埋まる一帯がある。
遣隋使・小野妹子をはじめ飛鳥から平安時代にかけて歴史に名をとどめた小野一族の人々を輩出したのだ。
其の子孫の一人である現代の小野さんが私の飲み友達であるのは私の自慢の一つだ。
琵琶湖を眼前に広がる丘陵地帯、
どの草叢からも、路地からも、山合いからも歴史が飛び出してきそうな雰囲気だ。
小野神社、小野篁神社、
たまたま参拝している親子連れ、小野一族なのだろうか。
小野妹子が遣隋使として持参した国書、
「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙なきや」
との文面が隋の煬帝の立腹を買ったとして知られている。
妹子は、その際の返書を百済に盗まれて無くしてしまったと言明しているが、
煬帝からの返書は倭国を臣下扱いする物だったので返書を破棄してしまったと推測されている。
祭神の米餠搗大使命は小野妹子の先祖で、
孝昭天皇の第1皇子である天足彦国押人命の7代めの孫にあたる。
応神天皇の頃に日本で初めて餠つきをしたと伝えられており、
菓子作りの神様として菓子業者から広く信仰を集めてる。
小野篁は小野妹子の子孫で、平安時代前期の官人、学者、歌人。
異名は「野相公」、その反骨精神から「野狂」とも言われた。
三蹟の一人小野道風は三代の孫だ。
篁は遣唐使制度を批判したり、遣唐副使を拒否したりして、
隠岐に流される。
難波より隠岐へ向かう船に乗り出した時に詠んだのが、
わたの原八十島かけて漕ぎ出でぬと人には告げよ海人の釣舟
百人一首に連ねる。
小野道風。
平安中期の書家、小野篁の孫。
藤原佐理、藤原行成と共に日本三大文筆、三蹟の一人として文筆の神として崇められている。
道風はこれ迄の中国の書風を放れ穏やかな整った日本的な書の典型となる和様書風を確立した。
戦前の教科書にある、
柳に飛び付く蛙の姿に教えられ書に没頭したとされる。
小野道風神社では屋根掃除の真っ最中、
一寸、立ち話したが、代々の村人がかくのごとく守って来たのだそうだ。