近江記14

医王寺

次の目的地は洞寿院と同じ谷筋の東林寺,西林寺だ。
ところが、何度電話しても繋がらない。
携帯の圏外なのだ。
一ヶ月前くらいに一応全部に電話してあるが、
「当日、また電話してください」
と言うケースが多く、今回は一つ拝観が終ると次へ電話する、
そんなやり方でやって来たが携帯の圏外は想定外だった。
畑仕事をしているご夫婦に尋ねる。
「東林寺は直ぐ其処だが、拝観かね」
「はい」
「予約してあるんかね」
「電話が通じないのです、誰か人が居られますか」
「あそこは無住だでな、さっき、世話人さんが下へ降りて行ったな」
「・・・」
「まあ、出直した方がいいな」

西林寺も電話が通じない。
尋ねようとしても人影も無い。
諦めて、次の目的地の医王寺へ電話するが、ここも繋がらない。
医王寺は、
今回の近江観音巡りの第二の眼目である己高閣・世代閣への通り道に有る。
調べると、地図にやっと載っているような道を行かねばならない。
以前、奥の細道を辿った時の事を思い出して一瞬怯む。
車を止めて、暫く考え込む。
あの陸奥の山刀伐峠の旧道を越えようとして、
道の狭さと少し積もった雪と泥濘で行くも帰るも出来なくなった事がある。
やっとの思いで脱出したが彼方此方擦って結構な損害だった。 
山の奥深さは同じくらい、
道幅も同じくらい、
対向車が来れば絶対に擦違う事は出来ない。
違うのは、雪は無いし泥濘は無いようだ、
もう一つ違うのはあの時乗っていたのは愛車フェアレディZ、
今回のレンタカーとは腰の高さが違う。

意を決して細道に挑む。
それにしても凄い山道だ。
何度か引き返そうかと弱気になりかかったが、
途中、医王寺こちら、との矢印があり元気が出た。
幸運な事に対向車とは一台も出会わない。
そう言えばこの谷に入ってから一台も車と行き合わない。
くねくねぐねぐねと走って小さな部落に出た。
V字型の谷底に思ったよりも広い川が流れ、
その川沿いの細い一本道の両側に家家がへばりついている。
地図を見るとこの辺りの筈だ。

道端で大根を洗っている小母さんに尋ねる。
「医王寺なら直ぐその先の右側の橋を渡った所だよ。
何だね、ご拝観かね」
「はい、そうです」
「予約は取ってあるんかね?」
「それが電話が通じないのです」
「ハッハぁー」
小母さんは大きな口を空けた。
「この辺りじゃ携帯は駄目じゃでノー」
「はー」
「それじゃ、私が案内してやるワ、私も案内人なんじゃで」
「はー」
「私はバイクで行くから、あんた先に行って待ってての」



細いがしっかりした橋を渡って進むと駐車場、
外に出ると目の前に年期の入った神社、
医王寺ではない。







振り返るとさっきの小母さんがバイクでやってきて手前で止まった。
一寸戻ると、医王寺の標識。





観音様は医王寺の境内の別棟の小さなお堂に納まっている。



国宝の文字の入った石柱があるが、
後で聞いた話では明治初年に国宝に指定されたが、
その後に国宝の基準が改定されて変更になり、
新たに重要文化財に制定された、と聞く。



小母さんが厨子の扉を開く。



初々しい乙女が僅かに微笑んでいる。
観音様と言うよりもはにかんでる少女の顔だ。

 

ふっくらした頬や胸元、如何にも初々しい。
楠の1木彫りのほぼ等身大・153.8cm。
やや古びてきた金箔がキンキラではない華麗さを醸し出す。
「いいお顔でっしゃろ」
案内人さんが呟いた。
「この大海部落でお守りしているんです」
と胸を張る。
どの仏像もそうだが、写真と本物では異なる。
特に此処の十一面観音の素顔は惚れ惚れする美しさだ。

この十一面観音の製作年代は10世紀から11世紀と判っているが、
明治初期に医王寺の住職が長浜の古物商で見つけてきた代物であり、
それ以前の歴史は全く判らず、謂わば、身元不明である。

優しい福福しいお顔からは想像もつかない艱難辛苦を経てきた観音様であるに違いない。
 
続く

 

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