近江記12
全長寺

北陸自動車道に平行して北国街道を真っ直ぐ北に向う。
途中で電話を入れ予約をお願いし、ついでに道順を尋ねる。
もう少し行くと若狭へ抜ける狭い谷に入るであろう辺りを左に折れる。
四方を田畑で囲まれ悠然とあるのが全長寺。



庭一面に紫陽花が咲き誇っている。









文明元年(1469)、全長により開かれた阿弥陀如来を本尊とする浄土宗のお寺である。
本堂は400年前に建てられたもので県の重文に指定されている。
こちらのお寺も奥様のご案内である。
中に入ると結構大きな部屋が幾つかある。
これがご本尊の阿弥陀如来だろうか。



仲々味のある見事な書が幾つか掛かっている。









幾つかの部屋を案内されて突如4畳半程の大きな達磨が現われた。



誰が何時書いたか不明だが寺宝だそうである。
イヤリングが異様だが印度ご出身なら当然なのかも知れない。
見事な絵天井も見られた。
この竈も謂れのある文化財とか。



奥様の後を付いて境内の別棟の観音堂へ、
ここに馬頭観音菩薩像が安置されているのだ。
扉を開くと、「うぁッー」と思わず声が漏れた。



凄まじい形相の馬頭観音菩薩像が睨みつけている。
午前中に、徳円寺の馬頭観音を観ていなければ腰を抜かしたかも知れない。
千手観音も馬頭観音も区別が付かなかったのだが、
徳円寺で凄まじい馬頭観音を観て両観音の違いをしっかりと認識しているので、
こちらの馬頭観音には左程驚かない。
が、
未だ、良き事、悪しき事の区別が付かない放蕩人に何か言ってる様でもある。

この馬頭観音菩薩像は、
元々近くの別所山上にあった天台宗万福寺の本尊であった。
万福寺は戦国時代の戦火で焼失し、その後慶長年間に山麓に再建されたが、
明治に入り寺院が老朽化し、全長寺境内観音堂に移され今日に至っている。



美しく彩色された寄木の木像であり、
高さ約1m、頭上には馬頭と2つの側面を持ち、
焔の髪をつけ念怒の相で六臂の立像である。
後世になって手を加えているのであろう金の彩色が多少けばけばしい感がしないでもない。
奥様の飾らない優しい笑顔と極めて対照的である。



この付近は賎ケ岳合戦の古戦場で周囲の山々には多くの陣地跡が残っている。
中でも、北方の林谷には、
柴田勝家の身代わりとなり500とも言われた全員が討死した毛受兄弟の砦跡がある。
山麓の毛受の森に兄弟の墓があると聞き捜し廻ったが見付からなかった。
車の入れない所にあるらしい。

賤ヶ岳合戦の折、敗戦を覚悟した勝家はこの地を終息の地と決め陣を構えた。
その時、小姓頭の毛受(めんじょう)勝助が諌め、
勝家の旗印である馬印、金の五幣を受け取り身代わりになって勝家を北国に落ち延びさせた。
激戦の後、毛受(めんじょう)勝助以下は全滅したが、
秀吉が首実検で取った首が勝家ではないことを知った頃には、
勝家は越前へ落ち延びていた。
主君の身代わりとなってかくも戦った毛受兄弟の武勇に感動した秀吉は
亡骸を懇ろに葬り近くの全長寺の僧に弔いを依頼したと言う。
この墓は、敗者側であり遺族も知れず放置されていたが、
毛受兄弟の忠節は後の世までも語り継がれ、
明治9年この地を訪れた滋賀県令籠手田安定によって、
新たに、林谷山麓に墓が立てられた。

全長寺は毛受兄弟の菩提寺であり位牌が安置されている。
現在でも、毛受兄弟以下を供養する行事は毎年執り行われているらしい。
奥様のお話では、
毛受兄弟は愛知蒲郡の出身で、今でも、時に蒲郡から縁者がお参りに訪れるそうだ。





もう一度紫陽花を見て宿に向う。

続く

 

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