東福寺
朝、強烈な二日酔いだ。
這う様に起き出し支度を整える。
女将にJRの駅を尋ねる、歩いてゆける距離だ。
改札で新幹線の切符を買おうとすると、
「すみません、緑の窓口は反対側に成ります」
荷物をガラガラ引き摺って階段を上がり、
長い長いホームを端から端まで歩いて、
又階段を下りる。

緑の窓口で、何か忘れ物をしてるようで考え込んだ。
そうだ、東福寺、京都へ寄ろう!
新幹線の切符は京都からにして電車に乗る。

大阪の東西南北がはっきりしない。
何か遠回りしたようだが大阪に着いた。

三日前一宿一飯の恩義を受けた高槻、そして長岡京を過ぎると間もなく京都、
ロッカーを探す。
東福寺方面行きのホームの近くで見付けたが、
頭の高さのロッカーに仲々荷物が入らない。
見ると、腰の高さのロッカーが空いている。
なんで、こんな高い位置のロッカーを選んだのか、
我ながら不思議な思いが横切る。
二日酔いとだけは言い切れない。
しかし、300円を既に入れてしまった。
それでも、ようやく荷物を押し込む。
それだけの作業で、もう、歩くのがやっとだ。
フラフラしながら東福寺を目指す。

私が東福寺に興味を持ったのは他でもない、
最近取り組んでいる古書の臨書に、
東福寺には、南宋の張即之が書いたと伝えられる、
「方丈」「東西蔵」「首座」「三応」「書記」
の額字が蔵されていることを知ったからだ。
もう、一つの理由は、
東福寺方丈の庭は、世界的に名を成す庭師・重森三玲の作庭と知ったからだ。

東福寺駅を降りると行列が出来る。
皆、東福寺を目指しているらしい。

東福寺
(以下、東福寺公式ホ−ムページより引用)
摂政九条道家が,奈良における最大の寺院である東大寺に比べ,
また奈良で最も盛大を極めた興福寺になぞらえようとの念願で,
「東」と「福」の字を取り,京都最大の大伽藍を造営したのが慧日(えにち)山東福寺です。
嘉禎2年(1236)より建長7年(1255)まで実に19年を費やして完成しました。
 工事半ばの寛元元年(1243)には聖一(しょういち)国師を開山に仰ぎ,
まず天台・真言・禅の各宗兼学の堂塔を完備しましたが,
元応元年(1319),建武元年(1334),延元元年(1336)と相次ぐ火災のために大部分を焼失しました。
・・中略・・
貞和3年(1346)6月には前関白一条経道により仏殿の上棟が行われ,
延元の火災以降実に20余年を経て,再び偉観を誇ることになりました。
・・中略・・
足利義持・豊臣秀吉・徳川家康らによって保護修理も加えられ,
東福寺は永く京都最大の禅苑としての面目を伝え,兵火を受けることなく明治に至りました。
 明治14年12月に,惜しくも仏殿・法堂(はっとう),方丈,庫裡(くり)を焼失しました。
その後,大正6(1917)年より本堂(仏殿兼法堂)の再建に着工,昭和9(1934)年に落成。
明治23(1890)年に方丈,同43(1910)年に庫裡も再建され,
鎌倉・室町時代からの重要な古建築に伍して,現代木造建築物の精粋を遺憾なく発揮しています。
また,開山国師の頂相,画聖兆殿司(ちょうでんす,明兆)筆の禅画など,
鎌倉・室町期の国宝・重要文化財は夥しい数にのぼっています。
(以上、東福寺公式ホ−ムページより引用)

様子が判らないが、前の人に続いて行くと、
回廊のようなところで行列の動きが鈍くなった。
しっかり付いて行くと、左側に紅葉の谷間が現われた。








入場券を買う。
入場券を買って門を潜ると、
一寸した広場の向こうに「方丈入り口」とある。
買った券は別口らしい。
広場には、評判の展覧会などでよく見るような縄が張ってある。
混んでる時は、この縄に沿って互い違いに人の列が出来るのだろう。
今日は、すんなり入れた、が、仲々前へ進まない。
後で知ったが、此処が紅葉時期の東福寺の名物?通天橋なのだ。






通天橋
(以下、東福寺ホームページより引用)
仏殿から開山堂(常楽庵)に至る渓谷(洗玉澗;せんぎょくかん)に架けられた橋廊です。
1380(天授6)年、春屋妙葩(しゅんおくみょうは;普明国師)が谷を渡る労苦から僧を救うため架けたとつたえられ、
歩廊入口には同国師の筆になる「通天橋」の扁額をかかげます。
南宋径山(きんざん)の橋を模し、聖一国師が通天と名付けました。
その後、第四十三世住持、性海霊見が修造し、長廊を架したともいわれますが、その後も幾度か架け替えられ、
現在のものは、1959(昭和34)年、台風によって倒壊したものを1961(同36)年、再建したものです。



(以上、東福寺ホームページより引用)















何時まで見ていても飽きない紅葉、
東福寺は天下に轟く紅葉の名所、
とは聞いていたが、
聞くと見るとでは大違いだ。








写真を撮っている間だけは不思議とシャッキリしている。
バチバチバチバチシャッターを押しながら回廊に沿って上がって堂門を潜ると、
庭園が飛び込んできた。







暫く、縁に坐って案内書を見る。
此処が開山堂なのだ。






開山堂
(以下、東福寺ホームページより引用)
通天橋を渡って至る、別名常楽庵。もとの建物は1819(文政2)年に焼失し、
1823年(同6年)、一条忠良によって再建されました。
屋上に閣を持つ類例を見ない開山堂で、正面柱間八間、内部は禅式瓦敷(四半敷)、
祀堂は床高で開山国師像を安置します。
上層伝衣閣は正面三間、内部左右いっぱいに壇を設け、中央に阿弥陀、右に薬師、左に布袋像を祀ります。
前方天井は格子天井で、この縁から見る庭園は、四辺の眺望を借景にして格別です。
(以上、東福寺ホームページより引用)

足を投げ出して庭を眺める。
何か落ち着かない。
やはり、お目当ての方丈を見てないせいらしい。
一旦、外に出て方丈への入場券を求める。
さっきの通天橋に比べれば、嘘のように人は少ない。















方丈庭園



(以下、東福寺ホームページより引用)
禅宗の方丈には古くから多くの名園が残されてきましたが、四周に庭園をめぐらせたものは当寺唯一の試みです。
当庭園は1938(昭和13)年、重森三玲氏が作庭しました。
釈迦成道を表現し、八相の庭と命名され、近代禅宗庭園の代表として広く世界各国に紹介されています。
(以上、東福寺ホームページより引用)

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方丈南庭













(以下、東福寺ホームページより引用)
方丈正面の南庭は210坪(693平方メートル)、
東西に細長い地割に、蓬莢・方丈・瀛洲(えいじゅう)、壺梁(こうりょう)の四島に見立てた巨石と、
砂紋による荒海の表現に加え、西方に五山を築山として大和絵風にあらわし、神仙境を表現しています。
鎌倉時代の質実剛健な風格を基調に、近代芸術の抽象的構成をとり込んだ枯山水式庭園です。
(以上、東福寺ホームページより引用)

方丈西庭





さっき、行列した回廊が向こうに見える。





(以下、東福寺ホームページより引用)
西庭は「井田市松」の庭。さつきの刈込みと砂地が大きく市松模様に入り、
くず石を方形に組んで井田を意図して表現します。色彩の変化も楽しい庭です。
(以上、東福寺ホームページより引用)

方丈北庭(裏庭)





(以下、東福寺ホームページより引用)
市松の庭は、作庭以前に南の御下賜門内に敷かれていた石を市松模様に配したもので、
通天紅葉の錦織りなす景観を借り、サツキの丸刈り、苔地の妙が調和するという、
南庭とは逆に色彩感あふれる空間となっています。
(以上、東福寺ホームページより引用)

方丈東庭







(以下、東福寺ホームページより引用)
北斗の庭は、もと東司の柱石の余材を利用して北斗七星を構成し、雲文様地割に配している小宇宙空間です。
(以上、東福寺ホームページより引用)
















国宝の三門、
 室町時代の作だ。




重要文化財の禅堂、
 こちらは南北朝時代のものだ。






張即之の書いた方丈も見た。
重森三玲の庭も見た。
何かが物足りない。
二日酔いでフラフラしながら見ている自分への不甲斐なさなのかも知れない。
兎も角、2006年秋、京の旅は終った。

追記。
何か物足りないのを思い出した。
「大阪市立東洋陶磁美術館」だ。
最終日に、何か忘れ物をしていて思い出したのが東福寺、
東福寺を思い出して忘れ物は解消した、と錯覚したようだ。
忘れの物が二つ有った微妙さだろう。

前 明日香

 






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