鎌倉を歩く

初夏の鎌倉を無性に歩きたくなった。
初夏と言っても、三日違うと景色が変わってしまう。
さて、今回は何処を廻ろうか、と、改めて鎌倉の地図を見る。

http://homepage3.nifty.com/kamakurakikou/bmap.html

昔、光明寺へ行ったことがあるので、
あの方面は行ったことがあると脳味噌に刻み込まれていたが、
よくよく見ると知らないお寺が一杯有る。
今回は材木座方面と決める。

久し振りに鎌倉の駅に降りる。
前回は、明月院から瑞泉寺へ降りる天園コース
その前が、北鎌倉から円覚寺、東慶寺から銭洗い弁天へ降りる源氏山コース
その前が、報国寺の竹林をみて、歩いて歩いて鎌倉大仏から由比ガ浜まで
その前は思い出せない。


鎌倉駅の前をスッと通り過ぎると大功寺、
鎌倉駅の真ん前、ものの3分歩くと別天地、






奥まった畦道の様な石畳の両側に可憐な花々、







本堂の欄干に閻魔さんが睨んでる。


お隣が本覚寺。
日蓮の遺骨が分骨してあるお寺、





日蓮宗の信者さん達にとってはかけがえの無いお寺なのだろう。



七福神の夷様を祀っているが、日蓮との関係は判らない。



この鰐口には驚いた。
力一杯綱を引いて叩き付けると鎌倉中に響き渡るような音が響き渡った。


地図を縦横眺めながら材木座方面を目指す。
踏み切りで待っていると変わったお地蔵さんが目に付いた。



明治年間の記銘がある。
踏切での交通事故の慰霊像らしい。
明治と聞くと、如何にも最近のようだが、
頼朝が鎌倉の地に幕府を開いたのが1192年、
大体、6倍の昔、遠いい昔とも思えるし、
意外に近い昔とも思えないでもない。


元八幡。
源頼義が前九年の役を平定した帰りに、
京都岩清水八幡宮を勧請してこの地に社を造立した。



これが源氏が東国に拠点を構える基点とも言える。
後に頼朝が現在の鶴岡八幡宮に移し確固たるものにしたのだ。





赤い鳥居の下で年端も行かない少年が頻りに何かしている。
声を掛けてみたが返事が無く、
独り言を言いながら一心に無心にだんご虫を集めていた。


南へ南へ鎌倉を海に向かって歩く。
傍らのショウケースの中に猫の置物が、
と思ったら、猫が目を開いた。



この辺りには、小さなお寺が散在する。
啓運寺、小さな小さなお寺だ。



顔立ちのいい猫が蹲って居たが、
私の姿を見ると早々に立ち去った。

通りすがりにキンキラキンのお寺が目に入ったが素通りする。
古今、名の通ったお寺も、建立当時はキンキラリンだったのだろうが・・・。


九品寺。
鎌倉には新田義貞が建立したお寺は此処だけしかない。









稲村ヶ崎で黄金造の太刀を海に投じ竜神に祈願し、
現れた干潟を突破し鎌倉に攻め入り鎌倉北条を倒した第一の功労者が新田義貞。



彼の鎌倉在住の期間は極めて短い。
建武の中興の最中に身を置き時代に翻弄された一途な一武将だったのだろう。
先年、京都嵯峨野の滝口寺入り口に新田義貞の立派な墓を見た。
住職の話では、毎年、義貞供養の為に全国つづうらうらから新田の子孫が集まるそうだ。
この話を聞いて、何かホッとしたものだ。



我々の時代に限るのであろうが、足利よりも新田のフアンなのだ。


光明寺。



社会人になって一年生の時にこのお寺の本堂で幾日か寝起きしたことが有る。
修行とかは全く関係ない。
当時、海水浴客に本堂を開放していたのではないだろうか。
数人の悪友達と何日か居座って、海水浴、麻雀、酒宴、そんなのを覚えている。
あれから45年振りの光明寺、当時のようにだだっ広くて人影は少ない、







後ろの山のそそり立った岩肌、そんなのを微かに想い出した。













パンを食べていたら猫が寄って来た。
パンを一切れ上げると鼻を摺り寄せ一嗅ぎかき、そっぽを向いて立ち去った。


補陀落寺。
頼朝の祈願寺として知られる。



運慶作の日光月光菩薩を遠めに拝する。
樹齢150年のサルスベリが威容を誇る、





花の咲く頃に訪れたいものだ。


実相寺。
曽我五郎・十郎兄弟に仇討ちされた工藤祐経の屋敷跡に建てられたお寺。
屋敷跡には何も残っていないが、工藤祐経の名は歴史に刻まれている。





祐経の叔父祐親まで話は戻る。 
伊東祐親は平清盛からの厚い信頼を受け、
伊豆に配流されてきた源頼朝の監視を任される。
しかし、娘八重姫は、頼朝一子千鶴丸を儲けるまでの仲になる。
これを知った祐親は千鶴丸を井戸に投げ込んで殺害、
さらに頼朝の暗殺も図るが、頼朝は北条時政の元に逃れ事なきを得たという。
伊東市では「伊東祐親まつり」を毎年開催し郷土の英雄として親しまれている。
曽我兄弟の祖父としてのもてなしかも判らない。
さて、その祐経だが、父の死後、叔父の伊東祐親が後見人となり、
祐親の娘・万劫御前を妻とする。
平重盛に仕え、歌舞音曲に通じ「工藤一臈」と呼ばれる程であった。
しかし、事件は起こった。
祐経が在京中に祐親は祐経の所領を奪い、
妻の万劫御前を土肥遠平に嫁がせてしまったのだ。
祐親を怨んだ祐経は祐親暗殺を企てる。 
が、誤ってかどうか、刺客は祐親の嫡男・河津祐泰を殺してしまう。
祐泰には妻の満江御前と一萬丸(曾我祐成)と箱王(曾我時致)が残された。
これが曽我の十郎・五郎だ。

祐経は歌舞音曲に秀で、平重衡を慰める宴席で鼓を打ち、
例の静御前が鶴岡八幡宮社前で舞った時にも鼓を打っている。
このように祐経は武将としてよりも教養人として、何かと頼朝に重用されたようだ。
巡り巡って祐経は曽我兄弟に討たれるのだが、北条の陰謀説も有る。

日本の三大仇討ちの一つに数えられるが、
本質は、詰まらない親族間の縺れ話なのだろう。


祐経の孫にあたる日昭上人の開山である。
日蓮の一番弟子である日昭上人は、
日蓮が佐渡に流された間、一門をよく仕切ったことで知られている。

そんな祐経や日昭上人の面影は全く感じ取れない簡素なしっとりとしたお寺だ。


五所神社。
村社五所神社と彫った長い石塔が立つ。
材木座村の名残なのだろう。



庚申塚、庚申信仰の申に拠るのか、
祭神が猿田彦神のせいなのか、
どの石仏にも彫られている、





「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿が微笑ましい。




歩き出して三時間は過ぎた。
一旦、広い通りに出て蕎麦屋を探すが見当たらない。
通り掛った青年に尋ねると、
首を捻って考え込む、「あっちかこっち?!」、
今通ってきた光明寺の近く、或いは鎌倉駅の方向、
どっちにしても、2,30分の距離らしい。

諦めて歩き出すと、直ぐ、喫茶店がある。
「蕎麦屋?」
と尋ねたのがおかしかった。
兎も角、腰を下ろす。
たいした距離を歩いていないのに酷い疲れ方だ。
こざっぱりした雰囲気の喫茶店、
おっとりした品の有る女主人の応対に癒される。


次の長勝寺をめざす。
長い白壁の真ん中にぽっかり空いた穴のような入り口、横門らしい。



目に前に巨大な日蓮像、高村光雲作だそうだ。
一段奥まったところにある法華三昧堂は鎌倉時代の建築様式で、







重要文化財というが、価値は判らない。


安国論寺。
固く門が閉ざされている。




妙法寺。





鎌倉の苔寺と異名がある。
今回の鎌倉歩きの眼目だ。



初めて拝観料を払う、300円。
静かなお寺だが、少し手入れが行き届きすぎてる感じもする。
青竹でキッチリと通路が出来ている。
本堂の裏に廻ると苔の石段、















裏山を息競って上り切ると護良親王の墓、
由比ガ浜を望む。
直ぐ下に日蓮が安房から鎌倉へ出て初めて庵を結んだ跡がある。









白いテッセン、これほど大きいのは珍しい。
理由を聞きそびれたが、
このお寺は江戸城大奥の女性達の信仰を集めたところだそうだ。


安養院。
このお寺も今回の眼目の一つだった。
それは躑躅が狙いだったのだが、
躑躅の盛りはとうに過ぎていた。













 



身代わり地蔵の脳天を摩ってきたが、
何かが起こるだろうか。

此処まで来て足が動かなくなった。
八雲神社、常栄寺、妙本寺から祇園山コース、
そして、報国寺までを、すっかり残してしまった。
鎌倉は何処へ行くわけでもない。
次回のお楽しみとしよう。

駅前で飲むビールの味は、また、格別だ。










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