奥の院



清流玉川にかかる御廟橋を渡ると、
空海の眠る奥の院まで約2km。
承和2(835)年、結跏趺坐のまま空海が62歳で入寂し、
奥の院最奥の弘法大師御廟に眠る。
参道には、千年近く光り続ける祈親燈をはじめ、
信者たちが寄進した燈籠の火が揺れる。



奥の院の入り口には霊園があり、
まず、目に付くのが、戦没者慰霊。
アンポン島海軍特別陸戦隊戦士之碑、和歌山県特別攻撃隊供養塔、
沖縄戦戦没者供養塔、ビルマ戦没者慰霊碑・・
企業や団体の墓地も多いが、自社宣伝の感もある。
ロケットもあったが意図を失念した。
動物供養、しろあり供養碑も異様だ。
作業着を着たブロンズ像がある、
業務中の事故などでなくなった方の供養、企業戦士の慰霊碑だ。

これは楽書塚。
墓地のイタズラ書きに心を痛めた人達が、
「どうぞラクガキを書いて下さい」
と、出来たものとか。
仲々気韻のある書だ。
発起人に落語家の柳家金語楼の名もある。
隣はは花菱アチャコの碑。





奥の院にいたる杉木立に覆われた参道脇に入ると、
数十万といわれる古今の墓石で埋まる。
お家の面子をかけて墓の威容を競ったのでは、
と思われるほど立派な墓が並ぶ。
織田信長、武田信玄、上杉謙信の名も見える。
光秀の墓もあるが真否の議論があるらしい。









弘法大師の少しでも近くで、傍らで、安らかに眠りたい、
そんな人々が身分の差無く眠っているのだ。

墓の間を縫ってお坊さんの列が動く。











納経所へ戻って、
結願の証の記帳を済ます。
これでこれで全て全て終わった。
お世話になった金剛杖、
もう一度、地面に突き立てて、
リリーン!
と言う音を聞く。
すんなりと丁重に奉納所に納める、
死者を葬る如く・・・
後で気が付いたが、
八十八番でのトラブルも何時の間にか全く忘れていた。

 

帰りは、歴史上の人物、著名人達のお墓を右左に眺めながら一の橋までの散策だ。

 

 

 

 

小さな井戸、
覗き込んで自分の顔が見えれば縁起がいいとか。
市川団十郎の墓もある、何代目だろうか。






蓮華定院、
今回のお遍路最後の宿舎だ。
鎌倉時代の始め行勝上人により創建されたと言う。
家門には真田家の家紋「六文銭」の提灯、真田幸村ゆかりの宿坊だ。



西軍に付いた真田昌幸は、
関ヶ原の戦にて、
上田城で徳川秀忠の西下を妨げたが敗戦、
秀忠軍にあった長子真田信幸の助命嘆願により、
次子幸村と共に高野山に蟄居を命ぜられ、
当院に仮寓し九度山に妻子を置いた。

昌幸は此処に没したが、
次子幸村は此処に10幾年かを過ごした後、
大坂冬・夏の陣で奮闘し戦死した。
その後は長子信幸との関係であろう。
この宿坊は真田家との縁が深く、
真田家により高野山における菩薩寺として保護されてきた。



 

 

 

真田幸村、信幸の書状など・・・

 

寝室の襖絵は虎、
作者を記録しなかったが、今にも襖から飛び出してきそうな迫力だ。

歴史を刻んだ豪華な絵入りの障子の部屋での食事、
大名の気分を味合う。







ご飯、お吸い物、胡麻豆腐、煮物、鍋、天麩羅、林檎、酢の物など、
美しく盛り付けされている。
調度品や什器にも六文銭の家紋が入っている。

 

左が夕食、右が朝食。

 





何回かの火災の際にも貴重な襖絵などは外して持ち出したと言う。
再建した建物にまた使ったのだ。
創建当時と基本的には同じ構造の建物だと言われる。









 











さあ、これで全部が終わった。
八十八ヶ所礼所満願、高野山への結願御礼、
さて、それで何が残って何が変わって何を得られたか、
考えてみた。

自分とは、
新しい自分とは、
自分の人生を見付けた、
とか、
何かに癒された
とか、
そう言った類の物は、残念ながら、何も無い。

唯一つ言える事がある。
間違いなく俺は死に向かっている。
これを、しっかりと自覚した事だ。
何か曖昧としていた死に対する不安の一部が取り除かれたような気がする。



 

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