第六十六番  雲辺寺



前方に池田町の標識が出て来る。
どうも阿波池田らしい。
イメージとしては、池田町は四国のほぼ中央の感覚だったが・・・
と言う事は、吉野川は、
もう少しで瀬戸内海に抜けようとばかりのところから流れ出ている事になる

雲辺寺は、
徳島県西部と香川県西部にまたがる標高927mの雲辺寺山々頂にあり、
四国霊場88ヶ所の中でも最も高い場所にある札所だ。

かつては、難所中の難所といわれたこのお寺も、
ロ一プウエイの開通で僅か7分で山頂に行けるようになった。

我々はロ一プウエイの裏側の旧道を車で登る。
パラグライダーの看板がある。
世の中かは変わったものだ。

駐車場から暫く鬱蒼とした杉並木を歩む。





山門に辿り着くと寒気すら感じる。
霊気と言うのだろうか。
何気なく始めたお遍路、
「一体、何の為にお遍路してるんだ」
「祈るってなんだ」
「自分ってなんだ」
そんなことが自然に湧き上がってくる。

ロープウエーも車も無い時代、
第一番からお遍路して、六十六番目のこの難所を登りきった時、
人々の心の奥底に何かの変化が現れ出したに違いない。

行き交うお遍路さん達も、
心なしか穏やかになってきたような気がする。









長曽我部元親の「裏山問答」はこのお寺での話だ。
阿波を席捲した元親がこの寺の裏山で,
四国の平野、山々、瀬戸内の海を見下ろし、
四国併合の野望の意思を固め、
旧知の俊崇という住職に話した。
俊崇は、
「それは茶釜の蓋で水桶に蓋をしようとするもの」
と語ったと言う。 
一説では、
「おぬしの器でない」
と語ったとも言う。
いずれにしても、分不相応になさいと諫めたのだ。
しかし、元親は聞き入れず、
四国全体を戦乱の渦に巻き込む。
四国統一をなしたものの、
後に、豊臣秀吉の四国征伐に屈し土佐に退いた。



 

五百羅漢、一体25万円で誰でも寄進出来る。
真新しい五百羅漢、石灯篭、余りいただけたものではない。
いずれ、時と共に味合いが加わるのだろう。





是はモミジの花? 楓の花?





大きな荷物を背負った女の子が荷物を放り出しどっかりと腰をおろした。
まだ、あどけない。



後に此処は四国高野とも言われ、
阿波、土佐、伊予、讃岐から学僧が集まり、
学問道場として盛んであった。
鎌倉時代には七堂伽藍が整備され、阿波、伊予、讃岐の関所でもあったと言う。
現在は往時の面影はみられない。

また、あの快活な青年に会う。
一年遊んで来年受験するとか・・
お遍路は彼の将来にとってかけがえの無い糧となるであろう。

 

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