第三十三番   雪蹊寺

 

長宗我部元親の菩提寺だ。
元親の号、雪蹊にちなむ。





 

太玄塔と見事な字で書かれた石碑が目に付く。
何処かで見た事が有る。
左側を凝視すると山本玄峰書とある。

 

大好きな玄峰の書が、何故こんな所に有るのだろう。
興味が沸く、案内板を見ると、太玄塔の石碑の隣に玄峰の塑像が立つ。
日本屈指の知識人・高僧、山本玄峰ゆかりの寺だったのだ。

改めて案内書を見る。
玄峰は7回目の巡礼の際、ここ雪蹊寺で行き倒れに成り当時の住職太玄に救われた。
これをきっかけに太玄に師事し出家した。

玄峰は三島龍沢寺をはじめ数々のお寺を再興した。
白隠禅師の再来と言われ、
政財界のリーダー達から心の師と仰がれた屈指の高僧として知られている。
玄峰は無類の酒好きであり、
90を越えても晩酌に3合から4合の酒を欠かした事が無かったそうだ。
敗戦時の総理大臣鈴木貫太郎に首相就任を進め、
「耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び」の文句も彼の発案であり、
「象徴天皇制」を提言したのも彼であったと言う。
私には書の上での玄峰しか興味は無いのだが。

墓も境内にあるようだ。
玄関を掃除していた女性に尋ねる。
「其処を真直ぐ行って突き当たったら右へ行って階段を上がってください。
其処に歴代住職の墓が並んでます、左から2番目が玄峰老師の墓です」
確かに玄峰の墓があった。
三島の龍沢寺に彼の墓が有った筈だ。
分骨したらしい。

玄峰の墓を一瞥して門前に戻ると、
皆が大笑いしている。
連れが今夜の宿へ電話を掛けた。
「そちらへ行く道順を教えてください」
「今、迎えに行きます、今、何処に居ますか」
「雪蹊寺の門前です」
「えっ、じゃあ直ぐ目の前ですよ」
振り返ると、宿の親父が電話を抱えていた。
成る程、高知屋の看板が目の前だ。


 

実は旅館高知屋と聞いていたのだ。
通されたのは4,50畳も有りそうな大部屋、
一瞬戸惑うが、まあこういうことも有るワイ。

ここの鰹の叩きは美味しかった。
玉葱と生姜が山盛りで鰹を隠している。
これが本場の土佐の鰹の叩きだそうだ。

食事中、女将が付きっ切りで世話を焼く。
先々代からの遍路宿なのだそうだ。
毎日毎日、お遍路の世話を焼く、
これが代々伝わって来た掟、定めなのだろう。
新聞にも紹介されている三代目名物女将、
屈託のない笑顔に疲れも吹き飛ぶ

続く
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