第十六番  観音寺



徳島平野の真っ只中、古い街並みにまみれている。








このお寺にはうら恐ろしい霊験の話が残っている。
明治時代の実話として伝わっている。
宮崎某という女性が仲間と遍路に出た。
生憎雨に降られ観音寺で雨宿りをしていると、
びしょ濡れの筈の白衣の裾が燃え出した。
仲間に火は消し止められたが、仲間は不審に思う。
彼女は語る。
「実は、私は長年姑に苛められ、姑の体が不自由になった頃、
姑憎しがつのり、姑を柱に縛りつけ口を手拭で覆い、
火の付いた薪で叩いたのです。 大師さまはお見通しです、
大師様の戒めにあったのです」



この大師様だが、
インターネットを弄っていたら意外な事実?を見付けた。
私は宗教には全く関心ない。
空海を知ったのは趣味の書道関係からだ。
空海の「風心帖」、最澄の「久隔帖」、
両者の対照的な書風からも二人の際立った個性の違いを垣間見られる。
二人の葛藤も良く知られている。
その最澄は死後三年目にして日本で最初の大師号である、
伝教大師の名(「諱=いみな」)を朝廷から贈られたが、
空海は時の嵯峨天皇に接近をはかるなど、
僧職者としてふさわしくない政治的行動性や、
旺盛な権勢欲が原因で彼を知る人達から嫌われた為に、
死後も長い間、大師の称号が与えられることなく放置されたままだった。
宗教上の業績とその人間性に対する評価とは必ずしも一致しない。
真言宗の僧侶観賢が、
空海に対する大師の称号を賜るよう朝廷に熱心に働きかけた結果、
空海を知る人がすべて死に絶え悪評も薄れた、
死後じつに八十六年後の921年になって、
ようやく弘法大師の名(「諱=いみな」)が贈られたとのことだ。
(以上、大橋義人さんの「四国遍路のはじまり」より引用、
こちらでは世界的規模で遍路を論じて居られ極めて興味深い。
http://homepage3.nifty.com/yoshihito/henro-sanpo-0.htm)


お役所と庶民との感覚の相違だろうか。

続く
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