アモイ、客家

10/16
昆明空港で、A、Aのお父さん、伯父さんと落ち合う。



今回はこの四人で客家廻りだ。
今回の旅はAが付いているので安心だ。
彼女は旅慣れているし、交渉力抜群、中国語も堪能だ。
お父さん、伯父さんとは、既に一緒に飲んだ仲、気心が知れている。
何時もは高級ホテル族なのだろうが、そんな素振りは微塵にも出さない。

アモイ空港。
ズラリと並んでいるホテル案内所の一つに声を掛ける。
頗る愛想が良い。
「兎に角、ホテルまで案内します、
気に入らなかったら他のホテルへ移られても結構です」
町並みが広広として爽やかな風が心地良い。
案内されたホテル、ここも応対の素晴らしい青年、日本語も堪能。
明日からの宿の手配、ガイドの手配もしてくれると言う。

決定、一休みして港まで。
とりあえず、ヘリーボートで10分ほどのコロンス島へ渡る。









観光客が多い、コロンス島といっても結構な広さだ。
ミニカーで島を一周する、運転する女の子の笑顔も清清しい。



天気のよい日には台湾が見えるとか。
アモイは台湾の近くと聞いていたので、
さぞかし蒸し暑いと予想していたが、快適この上ない。



10月、一番良い季節なのだろう。

清時代の末期の租界地、14ヶ国?の居留地が有ったと聞くが、
歴史有る洋館が立ち並んで南欧の小島の雰囲気。
荷車を引く人夫の顔付きにも暗さが無い。








中国の英雄、鄭成功の巨大な銅像がアモイを見守っている。



彼の母親は日本人だ。

新旧入り混じったエキゾチックな街、アモイ、
人口120万人、経済特区で加工貿易都市として発展し続けている。






この街からは多くの華僑が世界に羽ばたい行った。
華僑の親類が多く高収入の人が多くと聞く。
そのせいか街を歩いていても何か垢抜けてしている。

10/17
バスは大平野を快適に走る。
ゆったりした座席、道も素晴らしい。
途中から道の両側に見渡す限りバナナ畑が連続する。
トイレ休憩のついでにバナナを齧る。



この間の姚安付近では、頭から吊るした籠に玉蜀黍が一杯だったが、



この辺りのバイクはバナナを満載している。
両側の山が次第に近づくと、やがて、谷川に沿った山道、
雲南の険しさに比べたら穏やかな山並みの峠を幾つか越えて、
アモイから5時間、山間の街、永定に入る。

三人の盛装した女性に笑顔で迎えられる。
予約したホテルからのお出迎えだ。
この街で一番大きいホテル、三つ星位は有りそうだ、悪くない。



早速、食堂、大宴会の後らしく彼方此方にビール瓶が転がっている。
女の子たちも疲れ切っていたのか、生返事。
やっと、食事が出揃ったと思ったら、ガタガタと掃除を始める。
終にAが一人の女の子とやり合い出した。
早々に引き上げて、外で飲み直す事になる。
もったいない、折角の出迎い、愛想の良い受付、清潔な部屋、
感じの良いホテルなのに....
明日はホテルを変えることで意見が一致。

通りに出る、今までの街とは何か雰囲気が違う。
壁板に文字を書いては消し勉強している少女達、





楽器を奏でる老人の一団、道端に茣蓙を広げた露店、
次第に気分が安らぐ。

街の中央の広場、並んでいる屋台の一つに腰を下ろす。
愛想の好いおばちゃん、黙っているが笑顔を絶やさない小父さん、





手際よくテーブルに食事、飲み物を運ぶ利発そうな男の子、まだ中学生?
「この子は将来日本へ留学希望なんだよ」
自慢の息子の様だ。

飲み物を注文すると、その息子が、近くの酒屋に飛んで行って持ち帰る。
「幾ら幾らです」
とお金を受け取る。
我々が買っても同じ値段、屋台では食べ物だけを売ってるのだ。

教えて貰ったトイレにAと連れ立つ。
先に入ったAが
「ギャーッ」
と血相変えて引き返してきた、後も見ないで私の横を駆け抜ける。
何事か?と中を覗く。
素っ裸の男が100人位居るだろうか、公衆浴場だ。
縦100m横50m位か、中国で始めてみる公衆浴場。
もうもうと湯気が立ち上げている、温泉らしい。
Aは紛れもない女性なのだ。
トイレは50mほど先にあった。

日本で言うワンカップの如き1合くらいの白酒、
これがなかなかいける。
これぞ中国、の雰囲気を肴に何杯かお代わりだ。

10/18
アモイで予約済の貸切自家用車の運ちゃんが、既に、ロビーで待っている。
彼の名は簡君、28歳、元軍人、奥さんと子供が一人、
すらりとしたいかにも頭の切れそうな好青年だ。
威勢もいい、
「アメリカと戦争したかった、絶対負けないよ」
物騒な言葉がポンポン飛び出す。

最初に案内されたのが「西(コザトヘンに皮)天后宮」







客家達に崇められる女神?が祀られ、六重の塔が珍しい。
一階毎に神様が祀られている。





其の一つは文字を発明したと言われる蒼頡とだけ判ったが、
あとは何の神かは判らない。
どれもが素朴だ。

窓から土楼が見え出した、其の度に、皆が身を乗り出す。

客家(はっか)。
元々黄河流域の中原に住んでいた漢民族、
古代からの北方の騎馬民族との戦いの度に、
次第に南方へ逃げ延びた難民の子孫なのだ。
難民といっても、由緒正しい衣冠士族達、
れっきとした漢民族の一支系として、誇り高く独特の文化を持っている。
住み着いた場所でも土地の人々と馴染まず、自分たちの文化、習慣を保ち続けた。
新しい土地では「客」「よそもの」扱いされた。
更に、当時は未開地、匪賊や虎とかの野獣も出没した。
身を守るため、一族が一致団結して壮大な城壁を思わせる建物で生活した。
これが土楼だ。

外壁の四方にはいざ戦いのときの銃口となる小さな窓が付いている。
土楼は外敵からの防御のみでなく、通風採光、抗震防火、保温、
隔音隔熱、等々の機能も兼ね備えている。

土楼の形は多種済々で、四角、五角、八角、円形、半月形、D字型、
目字型、方円形等々、30種類以上も有る。
現地で採れる木材、石、砂利のみを用い、
中原から持ち込んだ建築、土木の技術を駆使して造られた。
大きな物は直径が100m、6階建てもあると言う。
当時としては異例の高層建築で3階以上が80%を占めている。


最初の土楼は四階建て四角形の方楼、縦53m、横52m、
1828年建成とある、比較的新しい。





方楼に囲まれた中央に祭壇、此処の神仏も素朴極まりない。



其の周囲に物置、水浴所、炊事場、豚小屋、井戸もある。















磨り減った木の階段、柱や棟の彫刻、格子窓、
無造作に放置されている時代物の家具、そこに生活する人々、
其の一つ一つに時の流れが刻み込まれている。

華僑には客家出身が多く、流浪の民で商業で身を立てた人が多い為、
「中国のユダヤ人」とも呼ばれてる。
李登輝、ケ小平、も客家出身だ。
各楼の中央に、其の楼から出て名を成した人々の名と写真が誇らしげに飾ってある。

今日の宿は湖坑賓館、
此処を拠点に二日間の土楼巡りになる。

夜、ロビーでお喋りしている傍らで、
少し厚めの化粧をした若い女達がマージャンを打ち始めた。
中国マージャンは、役、点数が関係ない。
何しろ何でも良いから最初に上がったが勝ちだ。
積もったら幾ら、振り込んだら幾らで一回毎に清算する。
中の一人が我々を振り返って、
「????」
両手で肩を揉む仕草、彼女達はマッサージ屋さん。
「どう、マッサージしない?」
という事だ。
彼女達もシーズンオフで暇を持て余している。
「やってみる?」



と席を空けられ、1回だけ付き合ったが見事に振り込んだ。
皆、気の良い女の子達だ。

奥の方から胡弓の音が聞こえてきた。



覗いてみると、宿の主人が一心不乱に胡弓を奏でている。
サービスのつもりなのか2,3曲聞かせてくれた。

続く



  

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